にわか雨
「わっ雨だ!」
靴を履き終え、昇降口からさぁ出よう、とした瞬間に鼻の頭に当たった水滴に、イタリアは驚いて声を上げた。
「夕方から降水確率80%だと言っていたからな」
そのままザァザァ降り出した雨を見ながら、少し遅れて靴を履いたドイツが横に並ぶ。
「だからおっきい傘持ってたんだー」
傘を差そうと鞄を肩にかけ直すドイツを見ながら、イタリアは一人で納得している。傘を出したり、探そうとする気配はない。その言葉からしても持っていないようだ、とドイツは判断した。
「まだ大丈夫かと思っていたが運が悪かったな」
小さく溜息をついて、バッと傘を差す。
と、
「いれてー」
イタリアがにこにこしながら寄ってぴたっとくっついた。
「…仕方のない奴だな…」
やはりそう来たか、というような気持ちで今度は盛大に溜息をつく。
「ヴェー」
イタリアは少しばつが悪そうに笑った。仕方なしに、イタリアのほうに傘を傾けてやる。
「ん、」
入れ、と促すとイタリアは満面の笑みを浮かべた。
この笑顔に弱いのだ。ドイツにはこんなに無邪気な笑みは出来ぬ。こんなに信頼しきった顔を他人に見せることは出来ぬ。それはこんなに大切に思っている友達のイタリアにですらそうだった。ドイツの場合には照れも多分にある。しかしイタリアには、好意をそのまま表すことに何の躊躇もてらいもない。ただただ嬉しくて仕方なくて、それへの感謝の気持ちを伝えたくて堪らないのだということがよく分かる。それは他の感情にしてもそうだ。彼は喜怒哀楽がはっきりしている。感情豊かだ。彼のそんな純粋さは危ういと思う。しかしそれ以上に、自分には欠けた、心の美しさを持つ彼に、ドイツは憧れていたのだ。
「ありがと!ドイツ」
「あぁ」
頷いて、はぁ、とまた溜息をついた。今度はどこまでもイタリアに甘い、彼自身の不甲斐なさに対してである。
駅に着くまで10分間、毎日のように一緒に帰っていようが話すことはいくらでもある。会話が途切れることはない。イタリアはよく喋りよく笑う。ドイツはそれに相槌を打っていることが多いけれど、見れば彼の口許は微かに緩んでいる。楽しそうなイタリアを見るのが嬉しいのである。
「いっつも朝天気予報見てくるの忘れちゃうんだよねー」
傘に入れてもらっているのを弁解するようにそう口にした。だから仕方ないんだよ、とでも言いたいらしい。
「ギリギリまで寝てるからだろう」
そんなことではごまかされないぞ、結局自分が悪いんじゃないかと、言外の意味まで含めた応酬が行われる。
「そうなんだけどー」
ここでイタリアは少し怯んだように口籠った。納得させられるとでも思っていたらしい。分が悪い、なんて最初から分かりそうなものであるが。
「ドイツいつも何時に起きてる?」
イタリアはやる気をなくしたらしい。少しだけ話題が変わった。
「6時半くらいだな。少なくとも40分には起きている」
「うわ、俺より30分以上も早い!」
イタリアは目を丸くして驚いた。ドイツすごーい、えらーいと称賛の声が上がる。
「逆に俺はそんなにギリギリまで寝てられるのが驚きだ…」
始業時刻から逆算して考えて、彼は頭を抱えたくなった。
行きは大体同じ電車に乗っているのだ。朝の準備が慌ただしかろうにも程がある。それでよく自分と同じ電車に乗れるものだ。
校門を出て右に曲がり、学校が見えなくなったあたりで、傘をちらっ、と見上げ、イタリアが言った。
「ドイツの傘デカくていいね。俺普段折り畳みばっかだからちっちゃくてー。天気予報見ないとさ、おっきい傘持ってかないから折り畳みのほうよく使うようになるでしょー」
「お前、自分の折り畳みは?」
「あ、」
はっとして立ち止まると、イタリアは自分の鞄をごそごそやり始めた。暫くして、
「あった」
がさごそしていた手を止めて、ちょっと気まずそうに笑いを浮かべながら、探し当てた折り畳みをおずおずと見せる。
「探してから入れろと言えよ」
今日何回目の溜息だろうか。溜息をつく度にひとつ幸せが逃げるんだよと、最初に教えてくれたのはイタリアだったか。よっぽど、お前のせいで俺の幸せはいくつも逃げていくぞ、と言ってみようかとも思ったが、どうせしょんぼりされるだけなので止めておいた。しょんぼりされても欝陶しいだけだし、第一彼のそんな顔を見たくはないのだ。ドイツの幸せはイタリアの笑顔とともにあるのである。哲学者や文学者なら溜息の原因と幸福が隣り合わせとは大いに示唆を含んでいると考えるかもしれない。しかしドイツはただの学生で、そういった感傷とは無縁だった。つまり、若かったのだ。溜息と同じ数だけ、いや、それ以上の喜びを貰っていることに、若いドイツは思い当たりもしない。
「ヴェー」
「まぁ、仕方ないな」
端から諦めている、というふうで溜息をつく。仕方ないな、と言ったが何が仕方ないのか、と自分でも思った。何故だか頬が少し熱い。まさか赤くなってはいまいか。気付かれてはなかろうが。自分をごまかしきれていない言葉に、ドイツはそれでも、あくまで知らぬふりを通す。
濡れないように傘の傾きを変えてやると、イタリアはもっと近くに寄ってきた。
「うん、」
仕方ない、と言外に続いていそうな、全く反省のないあっけらかんとした返事を寄越して、えへへ、と嬉しそうに笑い、イタリアは折り畳みを鞄に仕舞いなおした。