その白は、狂気だ
硝子戸から陽光がさしこんできて、その吐き気がするほど清清しい白さに眉をひそめて目を開けた。
はらはらとレースのカーテンが揺れる。
その向こうに緑色の芝生が見える。
ああここはどこだ。
こんな穏やかな世界は知らない。
雑踏もゴミも人もいないこんな世界は知らない。
いや、人はいた。
芝生の上にそぐわない黒い服を身に纏った細身の男が立っていた。
その背中は知っている。見間違えるはずもない。
「やあ、起きたかい?」
音も立てず声もかけなかったのにその男は振り返って揺れるカーテン越しに俺を見た。
至極愉快そうに笑って。ああその表情はなんてこの白い世界に似合わないのだろう。…この男もまた。
「…臨也さん」
呼びたくないのに。その忌々しい男の名をなのにどうして俺は紡いでしまうのか。
起き上がろうとしてしかし下半身が痛みとだるさを訴えていることに今更気付いて、ぼすん、と再び枕に頭を埋めた。
「朝っぱらからあんたの顔なんて、見たくない」
聞こえないように呟く。
なのに芝生から男の耳障りな笑い声が届いた。
「こんなに自然豊かな郊外の別荘地で朝っぱらから言うことがそれかい」
「…」
あんたこそ全然似合ってないんだよ。
今度こそ心の中で毒づいた。この男と言葉遊びをしたところで、どうせ気分が悪くなるだけなのだ。
「何でこんなとこ来たんすか…」
腕で日差しをさえぎるようにして、問うた。
胸の中はぐちゃぐちゃだった。
傷ついて、傷つけて。信じていたものが初めから幻だったと気付いて。
己の愚かさと情けなさでどうしていいのかもわからずただこの男を殺してやりたくて。
だけど何よりも自分を殺して欲しかった。誰かに。
そう誰かに。そんなことまで他人に頼って。
そしてすべてから逃げた。
なのに結局この男の下に戻ってしまっている。もう二度と姿も見たくなかったのに。
結局俺はこの男に絡めとられている。
己の強さも、見得も意地も悔いも救いもプライドも、この男の紡ぐ糸にすべて。
「“何で”?だって逃げたかったんだろう」
「今度は…何を考えてるんすか」
「分からないのかい」
ぎし、とベッドが軋んでスプリングが揺れた。
驚くほどあたたかい手が、静かに頬に触れた。
「つまらないんだよ」
裏腹に酷く冷たい声が耳元に響いた。
ぞく、背筋が震える。
「こんなところで勝手にくたばられちゃあ、ね。俺がここまで振った采配を台無しにしないでくれるかな、“将軍”?」
「……っ!」
男への憎悪と苛立ちで腸が煮えくり返りそうだった。
その口で言うか。また俺を駒として使い捨てるつもりか。
俺をまた引き戻すのか。あんたが!
「俺はいつも君の言うことを聞いてあげてるだろ?」
演技的な優しい声が覆いかぶさってくる。
吐きたくなるほどあたたかい手が両目を塞いでくる。
「さあ君の望むことなら、なんでも叶えてあげるよ」
愛してるから。
酷く楽しげに博愛主義者は嗤って囁いた。
ひとを操る力を持つその声に、俺は逆らえない。
長い指の狭間から真っ白い光が漏れる。
その白は、凶器だ。
ああこんなところに逃げて来たいなんて、本当に俺は思っていたのだろうか。
もしかしたらそうなのかもしれない。
街から離れて全て忘れて。そうできればどれだけいいか。
(だけどこの男が傍にいたら何の意味も無いじゃないか)
街と臨也は同じものなのに。
結局どこにいてもこの男からは逃げられないのだ。
そして逃げても俺は
ひとりでは、怖くて生きていくことができない。
「…ははは…っ」
瞼をふさがれたまま、低く嗤った。その声は臨也とよく似ていて、我ながら虫唾が走った。
けれどどうしようもない。俺はこの手を払うことができないのだから。
(こんな景色、見せるなよ)
きれいで澄んだこんな世界。俺にもあんたにも似合わないだろ。
きっとこんなところにいるから、勘違いしているだけなんだ。
このあたたかい手も、頬を流れる雫を拭ったこの熱い唇も。
全部全部、雑踏に戻れば何もなくなってしまうはずなのに。
この白い光に惑わされて。
そう、今だけ。
胸を疼かせるこの熱を離せないだけなんだ。