Lose sight of
アイツにとっては、随分退屈な国だったろう。現世で最後に暮らした国が、こんな平和ボケして豊かな国だったなんてどんな皮肉だろう。
WHOによれば、日本は平均寿命も世界一らしい。みんな醜いぐらいに生にしがみ付いて、病院で医療器具に繋がれたまま死を迎える。
「医療の発達で、幼い頃に死と接する機会が極端に減少している」とか「自宅で死を見届けたことのない子供が、残酷な事件を起こす」とか、ホントに専門家なのかと疑いたくなるような短絡的推論がテレビを賑わせている。
馬鹿馬鹿しくなって、ワイドショーからアニメ専門チャンネルに切り替えた。死と触れ合っていれば事件を起こさないだって?同胞を皆殺しにされて、国家転覆なんて馬鹿なことを企てたヤツを僕は知ってるよ。
僕の周りでは死が身近だった。
父方・母方どちらの祖父母も、僕が生まれた頃にはもうこの世にいなかった。幼い頃に妹を亡くした。僕の身に宿った悪霊のせいで、複数の友人が半死半生状態になった。カードゲームで死にかけた友人もいた。
死は特別じゃない。テレビの中の専門家は死を神聖化しているようだったけど、僕にとっては“生の一部”として当たり前のことだ。
僕たちは決して死と疎遠になってなどいない。死は毎日、食卓に運ばれて来るじゃないか。何も特別視することはない。
勿論、全く悲しくない訳じゃないさ。死んでしまった人とは二度と会えないのだから。身近な人を失ったことで生まれた心の穴は、きっと死ぬまで塞がらない。
代わりのモノが穴を覆って、日常生活を送る上では何ともないように装うけれど、ふとした瞬間にそれが捲れ上がって、思わぬ傷跡の深さに気付かされてしまう。
そんな痛みが、僕には残酷なまでに身近にあった。
彼らは死んだ時から年を重ねないまま、遺された人々の心の中で生き続ける。年月の経過で流されそうになる故人の面影は、その人との思い出が支える。その思い出が多ければ多いほど、故人は色褪せることなく心の中で生き続ける。
じゃあ、その思い出が一切ない人はどうなるんだろう。
有り得ない話じゃない。世の中には無縁仏がたくさんいる。僕の心に多くの穴を残していったアイツも似たようなものだ。歴史の表舞台にも残らない、誰の記憶にも残らない。いや、僕たちの記憶には残っていると言えるのかな。
でも、アイツの死を、消滅を、誰も悲しんではくれない。僕もそうだ。同情はしてやるけれど、悲しんではやらない。僕の人生を散々に引っ掻き回したアイツにくれてやる感情、その中に愛や慈しみなんて存在しない。
可哀相なヤツだ。アイツは生きる目的を見失った、哀れな魂だった。
アイツが聞いたら、鼻で笑うか、凄んで反論してくるか。でも、アイツの生きる目的はそのまま死に直結していた。
そんなの僕は認めない。認めたら、アイツも肯定することになる。途中で何度か変われる道もあったのに、馬鹿みたいに真っ直ぐ存在したアイツを認めることになる。
僕は認めない。
「お疲れ様」「もうお前は自由だ」
これは僕への言葉だ。アイツに傷付けられ、利用され続けた僕自身への慰め。
馬鹿なヤツ。怒りの矛先を見失った人間の全部が全部、お前みたいになるわけじゃないんだよ。
Lose sight of:見失う
作品名:Lose sight of 作家名:竹中和登