天才の受難日
だいたいこの前まで、俺と同じ中坊だったわけで、そんなの努力次第でなんとでもなるって思っていた。
しかしツンツン頭のあの男のプレーは、俺をへこませるには充分だった。
ある種のコンプレックスと、届かないものを請う強かに熱を孕んだ胸の高鳴りと。
しかしそれは同時に俺の心を惨めにした。
綾南高校バスケット部に入部し、わずか1カ月で俺は退部届を書いていた。
五月の心地よい風が、新緑を抜けていく。
誰もいない放課後の教室でひとり、退部届を書いていたら何だか泣けてきた。
「越野、部活行こ」
日の光を浴びて、ツンツン頭が笑っていた。
「あっと……俺もう行かねえんだ」
泣き顔を見られるのが嫌で、顔を背けた。
仙道は机の上の書きかけの退部届を手に持った。
そしてにっこりと笑ってそれを破いた。
「却下」
細かく破かれた退部届けが、窓から風に浚われていった。
「行こ、越野」
仙道が俺の手を掴んで、強引に引っ張って行った。
大きくて温かい手のぬくもりを今でも覚えている。
「離せ、仙道! 俺はもうバスケを辞めるんだ。退部届をもう一度書く」
俺は仙道の手を振りほどき、睨みつける。
「そっか、じゃあ俺も辞める」
「ばかっ、そんなの絶対許さないからな」
「なんで?」
気がつけば背中から抱きすくめられていた。
仙道の表情は見えなかった。
だけど、それはひどく傷ついた声色だった。
「仙道、お前は天才なんだ。だから絶対辞めちゃだめだ」
仙道の唇が、髪に、首筋に降りてくる。
「あっ、ちょっと……仙…道…」
女の子みたいに声がひっくり返って、なんだかいやらしい声だった。
「じゃあ、なんでお前は辞めるなんていうんだ?」
「そっそれは……」
俺は言葉につまる。
「バスケはさあ、ひとりじゃできないんだ」
いつも飄々とした男が、初めて見せた内面。
それはひどく幼くて、傷つきやすいもののように思えた。
西日の差しこむ教室の、机に腰掛けて抱き寄せられた。
仙道が俺の胸に顔を埋める。
「越野、悪い。ちょっとだけこのままでいてくれないか?」
「言っておくけど、俺はお前がキライだ。こんなの……不本意だ」
「うん……知ってる」
仙道の瞳に光る純粋な物質を見たとき、俺の心は砕け散った。
「おおおおおお、おい、お前なにいきなり泣いてんだよ」
仙道の顔を両手で包み、顔を覗き込む。
「苦しくてさ、苦しくてときどき死にたくなるよ」
仙道は立ち上がり俺に背を向けた。
「ちょっと待て、仙道。どういうことだ。お前一体なに言ってんの? とにかくわけを話せ」
「話したら、越野バスケ辞めない?」
「ああ、辞めない。だからっ」
「よいせっ」
気がつくと俺は仙道にお姫様抱っこをされていた。
そのまま体育館へ連行される。
「あ、先輩。越野捕獲しました」
「おお、御苦労だったな仙道」
任務完了とばかりに仙道が池上先輩に敬礼したときだ。
床に目薬が落ちた。
「仙道!てっめーハメやがったな」
めりっという鈍い音を立て、俺の拳が仙道の頬に炸裂した。
「謝らねえからな」
居残り練習の後で、もう他の皆は帰ってしまって、今は日の暮れたロッカールームに仙道と二人きりだ。
「うん……」
「でも、お前は綾南のエースなんだからな。ちゃんと冷やしとけ」
俺はタオルを濡らして仙道の頬にあてた。
「越野、イタイ……」
「当たり前だ。おもいっきり殴ったんだからな」
仙道の端正な顔に痣ができていた。
唇の端が切れて、それはなんだか悲しかった。
「唇、切れてるな」
俺がそう呟くと、仙道の手が伸びてきて、俺の顔を包みこんだ。
唇が触れた。
「ごちそうさま」
「仙道、てめー、今なにしやがった!!!」
越野の叫び声とともに、鉄拳がもう一方の仙道の頬に炸裂したのだった。
「越野、イタイ……」