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もしもの話

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もし、もう一度だけ会えたら何をする?

そう聞いた動機は単純なもので、たった今観た映画がそんな話だったからだ。
明るくなったシアターを後にしてポップコーンの空箱とアップルサイダーの瓶
をがこんと備え付けのゴミ箱に落とし込みながら何の他意もなく口から滑り出
た言葉だった。誰に、なんて聞く意味はない。聞かない事こそが特定の材料だ
と分かっていた、きっと互いに。
だけどそれは俺の心に棘を残すものだということもまた互いに知っていた。だ
から彼が「誰に?」とやはり他意のなさそうな口振りで訊ねたのはひとえに俺
のためだ。
「貴方の一番会いたい人に」
そう言ってしまえばこれ以上知らない振りはできないから、彼は今度は悩む素
振りを見せた。
「そうだなぁ」
語尾を延ばしながら、俺の2歩前を行く。オーバーヴァル通りをまっすぐ進み
ながら頭の後ろで組んだ手の左の人差し指がトントンとリズムを刻んでいる。
悩む素振り。
そう、『振り』だ。
彼の中に答えはきっとずっと昔からあって、そしてきっとずっと彼は想い描い
ている。何百回、何千回と同じ夢を。追えない夢を。


トントントン。鼓動より少し遅いテンポの指を止めないまま、やっぱあれかな
と彼はからりと明るい調子でいう。
「フルートを吹いてもらう」
「フルート?」
「そ。ハンミッヒの一等いいヤツを手に入れてさ、吹かせてやるんだ」
もちろんヘルムートの方だぜと彼はくるんと振り返った。暗い赤のパーカーの
フードが翻って右肩に偏っている。南北に走る通りを抜けて、菩提樹の影が落
ちる大通りにぶつかる。左へ曲がりながら車が途切れるのを待って車道を渡る。
「ヘルムート・ハンミッヒか。東の誇りだな」
「ああ。俺も吹くぜ」
「兄さんも?」
「オーストリアも呼んでピアノ弾かせて、ハンガリーはピッコロだ」
腕を解いて指折り名前をあげる。フランスとイギリスにはヴァイオリンだ。何
気にあいつら上手いんだよな、スペインはギターでロシアにチェロ頼むんだ、
あとはイタリアちゃんとお兄様が歌ってくれたら言う事なしだぜ。
「難癖つけたがる親父でもきっと文句の付けようがない音楽会になるだろ」
まるで明日のお祭のプログラムを辿るかのようにいって、けせせと笑う。
「そんで散々吹いたらヴェストのクーヘンを食わしてやるんだ。キルシュトル
 テにキルシュクーヘン、それにシュトロイゼルクーヘン。もちろんさくらん
 ぼのだぜ」
「さくらんぼばかりじゃないか」
呆れた風に苦笑すればそれがいいんじゃねぇかと返された。
「それからベルリッツとアスターとブラッキーも紹介しなきゃな。ベルリッツ
 とアスターは大丈夫だろうけど、きっとブラッキーは最初は寄りつかねぇ
 だろうな。怖がっちまって多分ダメだ」
「怖い人なのか……?国民には慕われた人なんだろう?」
「怖い怖い。あいつの物腰に騙されんなよ。あの時代の王宮の奴らならみんな
 知ってたぜ。頑固で変わり者で皮肉ばっか言ってさ」
言うわりに、彼は終始笑顔で嬉しそうだった。最初に俺を慮ってくれたのが嘘
のように今はただただ彼の一番純粋な感情でもって大切だと大声で叫べる人
の話をするのが楽しくて仕方ないといった様子だ。
それがほんの少し、本当に本当にほんの少しだけ悔しくて俺の口はまた滑る。


「もしも、もう一度会えるのなら」
「うん?」
「貴方なら謝りたいと言うのかと思っていた」
言い終えるより先にどさりと重い後悔が心臓に押し寄せた。
なんて失言だろう、なんて軽率なんだろう、なんて未熟なんだ俺は。
しかし、俺の後悔のタグが貼られたハートがもさりと生まれ始めた瞬間、彼は
はははっと軽やかにその小さなハートを笑い飛ばした。
「謝ってもいいけどな、それじゃ親父は楽しくないだろ」
無理をしてる様子なんてどこにも見つけられない。本心で言っているのだ。
「どうせなら思いっきり楽しんでもらうんだよ。この時代の良いトコばっか
 見せてやって。こんなにいい楽器が出来たんだぜ、こんなに美味いモンが
 あるんだぜ、こんなにデカイ建物があるんだぜってさ」
それからと組んでいた手を解いてまっすぐに一点を指差す。
「親父は今でもこんなに人気者だぜってな」
眩しいばかりの笑顔で。
彼の言うのは全てが相手の喜ぶことばかりで、自分の欲しいものは何一つ
含まれていないように思えた。もしかしたらそうして喜ぶ顔が何よりの幸いだ
というのかもしれなかったが、より即物的に出来ている俺には恐らく永遠に分
からない歓びだ。
「お前の考えてること当ててやろうか」
にやぁと腹の立つ表情で、一歩近付いてくる。読まれて当然だと思うくらいに
は単純明快な考えに至っていたので軽く肩を竦めるに留める。
「欲のねぇ奴だなって思ってるんだろ」
「まぁそんなところだ」
「ばっか違ぇよ。そんな訳ねぇだろこの俺が」
と胸を張って顎を逸らす。そんな風にしても右肩に寄ってしまったフードが
場違いだ。それが気になって俺は直してやろうと手を伸ばした。
「そうやってたくさん親父の喜ぶことしてやったらさ、親父は嬉しいだろ。
 で、思うだろ、ありがとうって感謝するだろ」
そうしたらさ、とそこで彼は首を俯けて小声になった。
3歩離れていたらきっと聞こえなかったくらいの。でも今俺は彼の服装を整え
るために近付いていた。
だから、聞こえた。
「そうしたら親父はきっとこう言うんだ。『ギルベルト、お前がプロイセン
 で良かったよ』って」
俺の手は宙に浮いたまま固まって、あとちょっとでフードに届く距離で止まっ
てしまった。
動かせなくなった手に不審な目を向けることもなく彼は俯けた顔をめぐらして、
大きな騎馬像を見上げた。いつだか彼は「こんなんアイツの趣味じゃねぇよ」
とぶうぶう言っていた像だ。
けれど今、それを見上げる目に無骨なブロンズなど映っていないのは明らかだ。
そして俺は俺など存在しない世界を夢見る彼を唯ひたすらに見つめていた。


そうやって数秒だか数十秒だか経った後に彼はまた俺に視線を戻して、ケセッ
といつものように笑った。
「な、俺はちゃんと欲深いんだよ」



                     <もしもの話>
作品名:もしもの話 作家名:_楠_@APH