ひだまり
「適当に掛けてくれ。まだ電車の時間には早いから」
「はい」
俺は、言われた通りに、手近にあった椅子に掛ける。
目の前の男性は、部屋に備えてあるオーディオプレーヤーをいじりながら、
「今から、お前のマスターの声を聞かせるからな、カイト」
「はい」
俺を購入したのは彼だが、彼は俺のマスターではなく、マスターとなる人の孫だという。
彼曰く、俺は、「じいさんへのプレゼント」ということらしい。
俺のマスターとなる人は、昔、オペラ歌手をしていて、今は引退して、一人暮らしなのだそうだ。
「よし、準備できた。よく聞いておけよ」
「はい」
彼がリモコンをいじると、ピアノの音色が響く。
「あの・・・この曲は?」
「シューベルトの歌曲、「冬の旅」。有名な曲なんだぞ」
そう言われても、俺にはよく分からない。VOCALOIDは歌う為に存在するが、その歌を与えてくれるのは、マスターだ。
俺はまだ、マスターに会ってすらいない。
けれど、響いてきた歌声に、圧倒された。
艶のある、滑らかな歌声。圧倒的な声量。
悲しみを内に秘めた歌声に、胸が締め付けられる。
これが、マスターの歌声。この人が、俺のマスター。
言葉もなく聞き入っていたら、「そろそろ行くぞ」という声とともに、音が消えてしまった。
「あっ」
「そんな顔すんなって。本人から、いくらでも聞かせてもらえよ」
それは・・・そうなんだけど・・・。
こんな時、携帯音楽プレーヤーがあると便利だなと、しみじみ思いつつ、俺はお孫さんの後をついて行った。
電車を乗り継いでたどり着いたのは、山間の小さな駅。
お孫さんは、「帰りの電車がなくなるから」と言って、帰って行った。
「じーさんには、ちゃんと話してあるから、心配すんな」
そう言われても、不安はちっとも消えない。
渡された地図と財布を握り締め、俺は、マスターの家を目指して歩き出した。
「おおい、そこの青い髪の兄ちゃん!あんた、オト先生のとこに行くんだろ?」
声を掛けられ、顔をあげると、軽トラックの運転席から、中年の男性が顔を覗かせている。
「あ、えと、あの」
「オト先生だよ!歌の先生!兄ちゃん、何とかろいどとかいうやつだろ?」
「・・・あの、ええ、はい」
「丁度よかった。通り道だから、送ってやるよ。乗りな!」
そう言って、助手席側のドアを開けてくれた。
えーと、あの・・・ええ?
俺が、乗ったものかどうか迷っていると、
「遠慮すんなって!そんなちんたら歩いてたんじゃ、日が暮れちまうぞ!」
ちんたらって・・・酷い。
「あの・・・じゃあ、お言葉に甘えて」
「おお、いいってことよ!こういうのは、お互い様だからな」
軽トラックに揺られて、一体どこまで連れて行かれるのかと不安になった頃、男性が古くて大きな家を指差し、
「ほら、ここがオト先生の家だ」
そう言って、トラックを止めた。
「あ、ありがとうございます」
「いいってことよ。先生によろしくなー」
そう言って、軽トラックは走り去って行った。
男性に手を振って別れた後、門にかけられた表札を見る。
「音羽」
・・・オトバ。この人が、俺のマスター。
ここに、マスターが住んでいる。あの歌声の持ち主である、マスターが。
・・・き、緊張してきた・・・。
どうしよう。あれだけ歌える人なのだから、VOCALOIDなんて、必要ないんじゃないだろうか。
いや、話し相手くらいなら・・・なれる・・・けど。
で、でも・・・もし、俺の歌を聞いて・・・気に入らないって、言われたら・・・。
やっぱり、歌に関しては・・・厳しい人・・・なんだろうな・・・。
いや、あの、でも、俺だって、頑張れば・・・出来る・・・と、思う・・・。
ううー、どうしよう、どうしよう。
思わず、このままマスターに会わずに、逃げ帰りたい衝動に駆られた。
もし、「いらない」と言われたら。「自分には必要ない」と言われたら。
変に期待する前に、なかったことにしてしまいたい。
門の前で、しばらく逡巡していたら、
「カイト君?」
「うひゃああああああああ!!」
声を掛けられ、思わず飛び上がる。
振り向けば、そこには小柄な老人が立っていた。
にこにこと笑う顔は、よく日に焼けている。
帽子をかぶり、首にタオルを巻いて、作業着を着ていた。
「やあ、よく来てくれたね。待ってたよ」
「え?あの・・・・・・マスター?」
「オペラ歌手」というイメージとは真逆の姿に、まじまじと見てしまうが、
「うん、そうだね。そういうことになるのかな?」
艶のあるその声は、聞いたばかりの歌声に、ぴったりと重なる。
俺は、思わず背筋を伸ばして、
「あ、あの!か、カイトです!!よろしくお願いします!!」
勢いよくお辞儀をすると、マスターは笑って、
「いやいや、元気だね。それに、いい声だ」
「え?」
恐る恐る体を起こすと、マスターは笑顔で、
「君の声に惚れてね。年甲斐もなく、ねだってしまったんだよ」
「え・・・あの・・・」
それは、俺の声を、気に入ってくれたということなんだろうか。
マスターが、俺の、声を。
「あの・・・う、嬉しい、です。俺、あの」
思わず、言葉に詰まってしまう。
「うん、私も、来てくれて嬉しいよ。さ、立ち話も何だから、中に入ろうか。疲れただろう?ここまで、歩いてきたの?」
「い、いえ、あの、トラックで送ってもらったんです」
「それはよかった。駅からここまでは、大分距離があるからね」
マスターは、にっこり笑って、
「ようこそ、カイト君。これから、よろしくね」
終わり