羽衣
昔、数羽の白鳥が湖に降り立った。その白鳥は世にも美しい天女の姿となり水浴びをし始める。
それを森の中から覗き、その美しさに魅かれた男は女の身に着けていた羽衣を隠した。
帰れなくなった天女は男と結婚し、子を宿したという。
「何とも美麗なクニ作りの逸話だな」
太子は皮肉気に口元を歪めると、ぽちゃん、と肌寒い水の中に足を浸けた。
生まれた子供とは、おそらく新たに作られたクニであり、天女は滅ぼされたクニか村であろう。
神話や伝説とは大抵、想像よりはるかに残酷な歴史が秀美に彩られた紛い物。
否、それがクニという物であり、歴史と云う物か。
「大事を人質に欲しい物を手に入れる、か…」
悪くない。しかし、それなら私は何を人質に手に入れられるのだろう。
眩し過ぎる陽を、この掌に収めるには何が必要だろうか?
まるで掌から零れる雫を掴む様な、充ての見えない願いに拳を握ったその時、背後から足音がした。
「ああ、全く。こんな処で、何をしているんですか」
呆れた物言いと、滲み出る安堵の声。
少し泥の撥ねた靴は、口に出さぬまでも彼に余裕が無かったことを伺わせた。
「朝、虹を見たんだ」
「はあ」
「虹の根元を見たくて、追いかけたら此処にいた」
「……で、見れたんですか」
「いや、途中で見失ったな」
初めから馬鹿な事を、と言わないのは彼の忠義でも奉仕でもなく、単なる資性からだろう。
真っ直ぐで嘘の付けないそれは、時折、私には眩し過ぎる。
「本当に、そんなんだから馬鹿って言われるんですよ」
「何だとー! あ、お前か! お前だろ、私の筆から腐った納豆の匂いがするって広めたの! ぶっ飛ばすぞ!」
「僕じゃありませんよ。ぶっ殺すぞ」
「ご、ごめん…」
「それより太子。寒くないんですか、そんな所に足突っ込んで」
「うん、いや今にも瀕死しそう」
「瀕死しそうって何?!」
ともかくと思ったのか、私の腕を掴むと湖から引き上げ、どこから取り出したのか、タオルで足を拭いてくれた。
「優しいな、お前は」
「止めて下さいよ、僕、傘は持ってきてないんですから」
「私が褒めると、何か起きるのかよ!?」
「で、何か言いたい事でも?」
妹子は拭き終えたタオルをパンッと叩くと、顔を上げて、あの苦手な真っ直ぐな視線を寄こしてきた。
太子はそれから逃げる様に目を背け、湖の波を眼に写す。
「別に…何も、無いさ」
「……これだから、アホは困る」
「え、お前、今アホって」
「顔に似合わず、小難しい事を考えてたんじゃないですか。ったく、
普段の空っぽの頭をどうして、こんな時に利用できないんだか…」
「何を言いたいか分からんが、お前が酷い事を言いまくってるのだけは分かるぞ…」
ああ嫌だ、こんな人生。確実に妹子のせいだ。
「別に大した事なんか考えてないぞ。ただ、羽衣が欲しくて」
「羽衣? おっさんが、羽衣とは中々寒気が引かない光景ですね…」
「違うわ!」
これだから、お前と云う奴は!
妹子には、前も早とちりで、何故か私が破廉恥者扱いをされた事がある。
こいつの頭が下半身よりなのは今更だが、人の言葉をもっと聞く癖ぐらいは付けて欲しいものだ。
「伝説だ。羽衣の」
「ああ、確か水浴びをしてる天女の衣服を剥ぎ取って金にする話でしたっけ」
「まあ、もういいよ、それで…」
「何です、お金が欲しいんですか?」
別に、そんなものは要らない。腐る程あるし、それに温もりは無い。
羽衣は手段であって、本当に手に入れたいのは…。
「羽衣があれば、一生、天女を掴んでおけるだろう。それが、羨ましかったのかもしれんな」
羽の無い鶯は、綺麗な声を奏で続けるも、空には飛び立たない。
飛べない鳥は、逃げるかもと云う心配をせずに済む。
一生、私の傍に置いておける。
「そうでしょうか」
黙って、背に視線を刺していた彼が静かに声を出した。
「飛べないなら逃げる足がある」
「足を切ればいい」
「地を這う腕がある」
「もぎとればいい」
「助けを求める声がある」
「舌を抜けばいい」
「己を責める眼があります」
「闇しか見れぬ様に潰してしまって」
「何が残りますか? 本当に欲しかった物は、残っていますか?」
「……無いな」
困ったな。何が欲しかったか分からん。
「欲しいなら、欲しいと言わないと分かりませんよ」
「…………」
「皆が貴方の考えを読める訳じゃないんだ」
その声音があまりに穏やかで、そこで漸く、自分が話を逸らしていたのを気付かれていたのだと知る。
きっと、妹子は私が何を言いたいとか、何を考えているとか、そんなのは分かってないんだと思う。
それでも、あの曇りの無い視線は些細な感情の機微や表情の変化を本能的に掴むのだろう。
私なら、とうに壊れてしまうだろう。
朝廷入りして、まだ若輩と言えども、尾籠な世界に足を突っ込んでも尚、汚れぬ眼を持つ。
稀な、その才に焦がれ、手中に置きたくなるのに時間は掛からなかった。
この光があれば、私は闇に身を堕とさずにいられるような、そんな希みが彼には見えた。
しかし、それを汚さぬままに収める術が分からない。
「じゃあ、妹子ならどうする」
本当に欲しい物が、あったら。お前なら、どうやって手に入れる。
妹子は少し小首を傾げ、考え込むように宙を見上げたが、すぐに肩をすくめた。
「今、欲しい物が無いので分かりません」
「何も?」
「そうですね」
「食べたい物、したい事、見たい物も無いのか?」
「はい…まあ、強いて言うなら…」
お前さ、もっと大事なことって、たくさんあるだろう? 何だよ、最近の若者ってみんなこうなのか?
ジェネレーションギャップとか、ヤングな私には必要ないと思ってたんだがな。
すっかり渇いた足に靴を通し、二人分の足音が歩き出した。
「お前さ、絶対に出世できんぞ」
「そうかもしれませんね」
「馬鹿だろ」
「貴方よりは、賢いですよ」
「見くびるなよ! 摂政が本気出せば、小鳥の一羽や二羽…」
「食べる気ですか…」
「違うわ! だから、どうしてお前はいつもそうなんだ!?」
数歩先に前に出ると、ほっとしたように彼が溜め息を付いたのが分かった。
対等な物言いをしてるにも関らず、実直を絵に描いた様な彼の事だ。
おそらく上司よりも前に出ると云う事に気が引けているのだろう。
太子は、ぴたり、と足を止めた。
「太子? どうしました?」
ぱたぱたと少し慌てたように横に並んだ彼を、キッと睨むと、妹子は訳が分からず息を呑む。
「妹子は、私の横で歩け」
「は?」
「そうじゃなきゃ、帰らんぞ!」
太子は呆ける妹子から、ふい、と顔を背け、腕を組んだ。
己の子供じみた台詞に顔が熱くなるのが分かったが、今更取り消すのも格好が悪い。
「……て、欲しいんですか?」
「ん?」
「…………いえ、何でも」
ゆっくりと歩き出し、太子の傍によると早く帰りますよ、と来た道を指差す。
何だか狐に摘ままれた様に変な心地だが、太子が動くのを待つ彼にひとつ頷くと足をそちらに向けた。
「ああ~何だか犬なでたい」
「ああ、言い忘れてましたが、太子が拾ってきた仔犬の飼い主が見つかったので返しておきましたから」
それを森の中から覗き、その美しさに魅かれた男は女の身に着けていた羽衣を隠した。
帰れなくなった天女は男と結婚し、子を宿したという。
「何とも美麗なクニ作りの逸話だな」
太子は皮肉気に口元を歪めると、ぽちゃん、と肌寒い水の中に足を浸けた。
生まれた子供とは、おそらく新たに作られたクニであり、天女は滅ぼされたクニか村であろう。
神話や伝説とは大抵、想像よりはるかに残酷な歴史が秀美に彩られた紛い物。
否、それがクニという物であり、歴史と云う物か。
「大事を人質に欲しい物を手に入れる、か…」
悪くない。しかし、それなら私は何を人質に手に入れられるのだろう。
眩し過ぎる陽を、この掌に収めるには何が必要だろうか?
まるで掌から零れる雫を掴む様な、充ての見えない願いに拳を握ったその時、背後から足音がした。
「ああ、全く。こんな処で、何をしているんですか」
呆れた物言いと、滲み出る安堵の声。
少し泥の撥ねた靴は、口に出さぬまでも彼に余裕が無かったことを伺わせた。
「朝、虹を見たんだ」
「はあ」
「虹の根元を見たくて、追いかけたら此処にいた」
「……で、見れたんですか」
「いや、途中で見失ったな」
初めから馬鹿な事を、と言わないのは彼の忠義でも奉仕でもなく、単なる資性からだろう。
真っ直ぐで嘘の付けないそれは、時折、私には眩し過ぎる。
「本当に、そんなんだから馬鹿って言われるんですよ」
「何だとー! あ、お前か! お前だろ、私の筆から腐った納豆の匂いがするって広めたの! ぶっ飛ばすぞ!」
「僕じゃありませんよ。ぶっ殺すぞ」
「ご、ごめん…」
「それより太子。寒くないんですか、そんな所に足突っ込んで」
「うん、いや今にも瀕死しそう」
「瀕死しそうって何?!」
ともかくと思ったのか、私の腕を掴むと湖から引き上げ、どこから取り出したのか、タオルで足を拭いてくれた。
「優しいな、お前は」
「止めて下さいよ、僕、傘は持ってきてないんですから」
「私が褒めると、何か起きるのかよ!?」
「で、何か言いたい事でも?」
妹子は拭き終えたタオルをパンッと叩くと、顔を上げて、あの苦手な真っ直ぐな視線を寄こしてきた。
太子はそれから逃げる様に目を背け、湖の波を眼に写す。
「別に…何も、無いさ」
「……これだから、アホは困る」
「え、お前、今アホって」
「顔に似合わず、小難しい事を考えてたんじゃないですか。ったく、
普段の空っぽの頭をどうして、こんな時に利用できないんだか…」
「何を言いたいか分からんが、お前が酷い事を言いまくってるのだけは分かるぞ…」
ああ嫌だ、こんな人生。確実に妹子のせいだ。
「別に大した事なんか考えてないぞ。ただ、羽衣が欲しくて」
「羽衣? おっさんが、羽衣とは中々寒気が引かない光景ですね…」
「違うわ!」
これだから、お前と云う奴は!
妹子には、前も早とちりで、何故か私が破廉恥者扱いをされた事がある。
こいつの頭が下半身よりなのは今更だが、人の言葉をもっと聞く癖ぐらいは付けて欲しいものだ。
「伝説だ。羽衣の」
「ああ、確か水浴びをしてる天女の衣服を剥ぎ取って金にする話でしたっけ」
「まあ、もういいよ、それで…」
「何です、お金が欲しいんですか?」
別に、そんなものは要らない。腐る程あるし、それに温もりは無い。
羽衣は手段であって、本当に手に入れたいのは…。
「羽衣があれば、一生、天女を掴んでおけるだろう。それが、羨ましかったのかもしれんな」
羽の無い鶯は、綺麗な声を奏で続けるも、空には飛び立たない。
飛べない鳥は、逃げるかもと云う心配をせずに済む。
一生、私の傍に置いておける。
「そうでしょうか」
黙って、背に視線を刺していた彼が静かに声を出した。
「飛べないなら逃げる足がある」
「足を切ればいい」
「地を這う腕がある」
「もぎとればいい」
「助けを求める声がある」
「舌を抜けばいい」
「己を責める眼があります」
「闇しか見れぬ様に潰してしまって」
「何が残りますか? 本当に欲しかった物は、残っていますか?」
「……無いな」
困ったな。何が欲しかったか分からん。
「欲しいなら、欲しいと言わないと分かりませんよ」
「…………」
「皆が貴方の考えを読める訳じゃないんだ」
その声音があまりに穏やかで、そこで漸く、自分が話を逸らしていたのを気付かれていたのだと知る。
きっと、妹子は私が何を言いたいとか、何を考えているとか、そんなのは分かってないんだと思う。
それでも、あの曇りの無い視線は些細な感情の機微や表情の変化を本能的に掴むのだろう。
私なら、とうに壊れてしまうだろう。
朝廷入りして、まだ若輩と言えども、尾籠な世界に足を突っ込んでも尚、汚れぬ眼を持つ。
稀な、その才に焦がれ、手中に置きたくなるのに時間は掛からなかった。
この光があれば、私は闇に身を堕とさずにいられるような、そんな希みが彼には見えた。
しかし、それを汚さぬままに収める術が分からない。
「じゃあ、妹子ならどうする」
本当に欲しい物が、あったら。お前なら、どうやって手に入れる。
妹子は少し小首を傾げ、考え込むように宙を見上げたが、すぐに肩をすくめた。
「今、欲しい物が無いので分かりません」
「何も?」
「そうですね」
「食べたい物、したい事、見たい物も無いのか?」
「はい…まあ、強いて言うなら…」
お前さ、もっと大事なことって、たくさんあるだろう? 何だよ、最近の若者ってみんなこうなのか?
ジェネレーションギャップとか、ヤングな私には必要ないと思ってたんだがな。
すっかり渇いた足に靴を通し、二人分の足音が歩き出した。
「お前さ、絶対に出世できんぞ」
「そうかもしれませんね」
「馬鹿だろ」
「貴方よりは、賢いですよ」
「見くびるなよ! 摂政が本気出せば、小鳥の一羽や二羽…」
「食べる気ですか…」
「違うわ! だから、どうしてお前はいつもそうなんだ!?」
数歩先に前に出ると、ほっとしたように彼が溜め息を付いたのが分かった。
対等な物言いをしてるにも関らず、実直を絵に描いた様な彼の事だ。
おそらく上司よりも前に出ると云う事に気が引けているのだろう。
太子は、ぴたり、と足を止めた。
「太子? どうしました?」
ぱたぱたと少し慌てたように横に並んだ彼を、キッと睨むと、妹子は訳が分からず息を呑む。
「妹子は、私の横で歩け」
「は?」
「そうじゃなきゃ、帰らんぞ!」
太子は呆ける妹子から、ふい、と顔を背け、腕を組んだ。
己の子供じみた台詞に顔が熱くなるのが分かったが、今更取り消すのも格好が悪い。
「……て、欲しいんですか?」
「ん?」
「…………いえ、何でも」
ゆっくりと歩き出し、太子の傍によると早く帰りますよ、と来た道を指差す。
何だか狐に摘ままれた様に変な心地だが、太子が動くのを待つ彼にひとつ頷くと足をそちらに向けた。
「ああ~何だか犬なでたい」
「ああ、言い忘れてましたが、太子が拾ってきた仔犬の飼い主が見つかったので返しておきましたから」