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まるてぃん
まるてぃん
novelistID. 16324
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紡ぎしもの ~15 years ago~

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海へと張り出した桟橋の上に、ひとりの若い女がたたずんでいた。
時折吹き抜ける潮風に長い髪を遊ばせ、夜の闇に沈んで黒ずむ海面の先へと視線を向けている。
波止場から漏れるランプの明かりを背に受け、うしろでひとつに束ねられた髪が、薄く金色に光り輝いていた。

「キリカ」

女の背に、男の声がかけられる。
名を呼ばれて振り返った女は、その顔にひっそりとした微笑を浮かべた。

「リノ。どうしたの? こんなところで」

薄い金髪を短く刈り上げ、いかにも海の男といった風情の30代半ばほどの男が、女の問いかけに顔をしかめる。

「それはこっちのセリフだ。おまえのほうこそこんなところで何をしている」

言いながらも自らがキリカと呼んだ女のそばへと近づいた男は、うしろから抱きしめるようにその細い肩に腕を回した。

「夜は冷えるぞ。大事な時なんだ。無理をするな」

年中が温暖な気候に恵まれたこのオベル王国でも、季節というものはある。
さすがに北の大国ハルモニアのように、四季によって顕著なまでに気候に差は表れないが、それでも秋も近づいたこの頃では、夜風はいくぶんか冷気をともなっていた。
リノは女の肩を抱いたまま、そっと彼女のふくらみを帯びたお腹へと手をあてる。

「お腹の子が冷えたら大変だ。王宮へ戻ろう」

耳元で優しくささやけば、キリカと呼ばれた女はくすぐったそうに身をよじった。

「大丈夫よ、リノ。あなたったら本当に心配性なのね」

からかうような声で返されて、リノは少々苦虫を噛み潰したような顔になる。

「おまえが無頓着すぎるんだ」

その言に、キリカはくすくすと笑いを漏らした。

「あなた。フレアを身ごもった時もそうだったわ。やれ重い荷物は持つなだの、夜風には当たるなだの、挙句の果てには階段を抱きかかえて登ろうとしたり…」

過去のことを持ち出され、リノはますます渋い顔になる。

「仕方がないだろう。あの時は初めての子供で、おっかなびっくりだったんだ。それより夜風で体を冷やすのは、やはり良くはないだろう? そろそろ秋風も混じってくる頃だ。こんな所に立っていたら風邪をひくぞ」

肩を持つ手に力を込めてリノは女をうながそうとしたが、キリカはその場に立ち尽くしたまま動こうとはしなかった。

「キリカ?」

最初とは違い、男が女の名を呼ぶ声に訝しげな響きが混じる。
肩に置かれた男の大きく分厚い手の甲に、キリカはそっと己の手のひらを重ねた。
その冷たい感触に、リノは思わず身震いする。

「…リノ。私、あなたには本当に感謝しているわ」

突然に改めて切り出されたその言葉に、リノは目を丸くした。

「なんだ? いきなり」

キリカより頭一つ分背の高いリノには、うつむいた彼女の表情をうかがい見ることができない。

「…あなたは、私がこの手に紋章を宿してからも、何ひとつ態度を変えなかった」

リノの手に重ねられた女の小さな手の甲には、うっすらと禍々しい模様が浮かび上がっていた。

「当たり前だ。紋章があろうがなかろうが、おまえはおまえであることに変わりはないだろう?」

やや語調を強くしたリノとは反対に、キリカは弱々しく首を振る。

「違うわ。私は変わってしまった。この紋章を手にした時から、私はいつも怯えている。いつ、この命が果てるのかと…」

女の語尾を遮るように、リノは力を込めて彼女の両肩をつかみ、その体を自分のほうへと向けた。キリカの目を真正面からのぞき込む。

「いいか。前にも言ったと思うが、どうやらおまえは忘れてしまったようだから、もう一度言うぞ。俺はそんな紋章など恐れない。だから、おまえも恐れるな。それでももし、怖くて仕方がなくなった時は、俺を頼れ。俺は絶対におまえを守る。…だから、もうこんな所で、ひとりで震えたりするな」

小刻みに肩を震わせ始めた女を強く、そして優しく抱き締める。
キリカはリノの肩に顔を埋め、声を殺して泣いた。
なぜ、彼女なのだろうと思う。
あの時―――はからずも遺跡の封印が解かれてしまったあの時、あの場にいたのは彼女だけではなかった。
自分自身も彼女の傍らにいた。
それなのに、なぜ―――。

―――なぜ、紋章は彼女を選んだのだろう。

それは短き生しかもたない己には知る由もないことだ。
それでも呪わずにはいられない。
彼女を器に選んだ紋章と、選ばれなかった自分自身を―――。



「…リノ」

彼の肩に顔を埋めたまま、震える吐息の合間にささやいてきたキリカに、リノは静かに神経を集中する。

「私…怖いの。この子が…罰の紋章を宿した私のお腹の中にいるこの子が、無事に生まれてくるのかと……この子にまで呪いが及んだりはしないかと」

リノはその告白に、驚いたようにキリカから少しばかりその身を離した。
頬を涙に濡らしながら、キリカはリノを振り仰いだ。真っ直ぐに見つめてくる瞳には、どこかすがるような色合いがある。
リノにとって彼女の言葉は予想外のものだった。
否。
予想外だったのではない。
リノは彼女に言われるまで、そんなことなど思いつきもしなかったのだ。
それと同時に悟る。
彼女が人目を避けるようにこの桟橋で物思いにふけっていたのは、ただ単に真の紋章の呪いが怖かったからではない。その紋章の呪いが己のお腹の子に及ぶのではないかと、危惧したからだ。
そのことに告白されるまで気づけなかった己のうかつさに、リノはほぞを噛む思いがした。
結局のところ、人はいくら他人の身になって考えているつもりでいても、本当には己自身のこととして受け止めることはできない。
それがどれだけ愛する女のことであろうともだ。

―――だからこそ、自分にしかできないことがある。

「大丈夫だ。たとえ呪いを受けたとしても、俺とおまえの子だ。そんな呪いには負けない強い子に育つに決まっている」

たとえそれがただの気休めでしかないとしても。
信じる想いは力となる。

「そうね。大丈夫…大丈夫よ。あなたは強い子になるわ。何があっても私が守ってあげるから」

キリカは唇に微かな笑みをのぼらせ、そっと己のお腹に手をかけてささやいた。



大丈夫。大丈夫。
きっとあなたは強い子になる。
何があっても私が守ってあげるから―――。