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名前を教えて

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ゆらゆらと揺れる火の柱がいくつも有る、仄暗い洞窟。その揺らめく焔の上に、まるでそれが椅子か何かであるかのように腰掛けている娘が居る。実態など無きに等しい炎に腰掛けているというのに、彼女のつま先は大地を離れ危なげもない。
「……ねぇ。貴方の名前は、なんて言うの?」
彼女は、こちらは地面に四肢を投げるようにして座った大柄な男に問うた。彼はとても、不思議なことを聞いた顔をし。人の物とは明らかに違う腕を、彼女へと伸ばした。ただそれだけで、彼女の腰掛ける炎はほんの少し、高さを下げる。万が一、転がり落ちたら危ない。そんな思いなのだろう事が、想像に難くなくて。彼女は小さく、笑みを浮かべた。彼の手元へ、炎はゆっくりと近づき。最後には彼の腕に、ぴたりと寄り添ってしまった。彼が人ならば、大けがは免れない。いや、それは炎に腰掛ける娘にしても同様だが。だが、彼女も、そして彼も火傷はおろか、炙られた肌は赤くもなっていない。……彼らは、人では無いのだ。炎を統べる者と、その伴侶である娘を炎は傷つけない。
「シャイターン」
 目を愛しげに細め、彼の掠れた声が甘く答える。
何処かその名を誇るかのように『悪魔』、と。
「違うの、そうじゃなくて」
「何ガ、違ウ? ――ライラ」
 心から不思議だ、というように彼は首を僅かにかしげてみせる。深い赤色をした癖のある髪が、それに従い僅かに揺れた。 
「それは、私が貴方を呼んだ名だわ」
 ……いいや。そもそも、それは本来名前でさえないのだ。『悪魔』という意味の、普通名詞。それは鳥を鳥、と呼んだような物であって。個を識別する、名前ではない。
「あの時、私が聞き取れなかった貴方の名前よ。今なら、きっと理解できるはず」
 『あの時』、それは彼女と彼との出会いの時だ。名を問われライラと答えて、名を問い返した。その時に男が答えた名があったのだが、耳慣れない響きで聞き取れなかったのだ。そのため、便宜上その男の容姿から連想した『悪魔』と呼ぶことにしたのだった。
「シャイターン。他ノ名前ナンテ、要ラナイ」
「でも」
「シャイターン、ライラガクレタ名前。他ハ、要ラナイ」
 問われ答えたのは、自分自身でさえ忘れかけていた名前だった。しかし、名前はそれを呼ぶ相手が居て初めて意味を持つ物だ。長い長い時の中を、封じられ置き去りにされている間。誰一人として呼んでもくれなかった、名前。そんなものに、何の意味や価値があるだろう。そんなことを心の中で続け、シャイターンは笑んだ。それが例え、ライラが慣れ親しんだ言語で個を識別する名前ではなかったとしても。例えば百万の石の中から一つを拾い上げ、それを『石』と呼んだならば、それは個を差している事になるだろう。ライラにとって、『悪魔』という個を差さない言葉だとしても。シャイターンと呼びかけられる存在が、ただ一人炎の悪魔である男であるのならば。それは十分に、『名前』でありえるはずだ。

 男が、一体何を思っているのか。ライラには、うかがい知ることは出来ず。けれど、ライラの呼んだ『シャイターン』という名しか要らないと笑う男に、根負けしてライラも僅かに笑んだ。しょうがないなぁ。そんな思いと共に。
 この大きな体をした生き物は、長すぎる孤独という毒に晒され続けたためか、とてもとても寂しがり屋だ。――寂しがり屋、だから。呼んでもらえた、与えてもらえた。名も温もりも、思いも。全てが彼にとって、かけがえないほど大切な『宝物』なのかも知れない。

「……しょうがないなぁ……」
 大きな体をした寂しん坊に、とんと体重を預け。ライラは溜め息のような声に、愛しさを込めて呟いた。
 それでも。いつか、数え切れないほどの寂しさを埋めた、その後に。もう一度、聞いてみようと考える。

『貴方にとってはもう、意味を喪った名前でも。私は、それでも『貴方の名前』だから、知りたいの』……と。
作品名:名前を教えて 作家名:神谷剣