オーバーライド・スナイパー(冒頭)
『…海って、ベタベタするんですね』
うんざりしたような声音が背後から聞こえてきたが、ロックオンは取り合わずにタオルだけを後ろ手に投げて寄越した。
変なところでどんくさい声の主は、唐突に投げられた物体にすぐに反応できなかったのだろう、蛙が潰れたような声をあげ顔面で受け取ったらしい。
『そりゃ、海には塩分が含まれてるからなあ』
『もしかして、窓が曇っているのも?』
『ああ、あれも塩だ』
ふき取ったところで一週間もしないうちにまた汚れるのだという丸窓を思い出して尋ねると、肯定の返事が返ってきた。
残念ながら、二人がいるこのシャワールームには窓はない。
もうもうと煙が立ち込めているシャワールームの区切られた一スペースで体のべたつきを落としながら、アレルヤは改めて自然の不思議を痛感していた。
勿論、知識の上では、海に塩分が含まれているという程度のことは知っていた。
正確には、塩分のお陰で海辺の建物や武器が傷みやすいという事を知っていただけだったのだ。
近くにいた場合、人間にどういった影響があるのか、どう感じるか、なんてものはアレルヤの手にすることができた資料には載っていなかった。
そんな経緯を知っていて知らないふりをしているのか、知らないけれどもなんとなく察して黙っているのか―――アレルヤは知る由もなかったが、彼と一緒にいる時間は何となく安心できるものだと感じていた。
『海辺に突っ立ったままでいたり、足を突っ込んだくらいじゃ大した事はないが、お前さんの場合は頭から落ちたから』
『…っその話はもう忘れてください!!』
つい先ほどの失態を再び話し出したロックオンに慌てて、アレルヤはタオルで体を拭く手も止めてシャワーブースから飛び出す。
『アレルヤ、前』
『貴方のせいです!』
言われてようやく何も着ていなかったことに思い至り、放り投げたタオルでぐるぐると腰周りを覆って―――アレルヤはため息をついた。
タオルを巻いている間も「しばらく見ないうちに立派になったなぁ」などと言うセクハラ一歩手前の兄貴分の言葉が降りかかってきたが、もはや反論する気力さえ失せてしまう。
先ほどまで年上らしい余裕に満ちた兄貴面をしていた彼は、何処に行ってしまったのだろうか。
(…でも、こういう所も彼の魅力、なのかな)
魅力、と自分で言っておきながら妙に気恥ずかしくなってしまって、アレルヤは早足でロックオンの前を通過してしまう。
それが逆に、彼の興味を誘うと分かってはいたが、感情制御の方が大切だった。
『こら、髪はきちんと拭かないと』
『次の日に風邪を引く、でしょう?僕は子どもじゃないんだ、それくらい理解しているよ』
『そう言う奴が子どもなんだよ』
はは、と楽しそうに笑いながら、彼はもう一枚のタオルを投げ寄越した。
からかったりされるのは少々面白くないが、実際には彼には世話になりっぱなしだ。
待機時間の暇つぶしにやって来た海で誤って海に頭から落ちたアレルヤを、シャワールームに連れてきたりタオルを用意してやったり、実に甲斐甲斐しく世話をされてしまったのだ。
(まるで「お兄さん」みたいだ)
親兄弟を持ったことがないアレルヤには兄がどういうものかは想像することしかできないが、こんな「兄」ならいても悪くないと思えた。
――――――しかし実際に彼の弟であった「彼」には、兄との生活はどうだったのか、等という馬鹿げた質問は、一度もしたことがない。
* *
『―――――っ!』
アレルヤ、という鋭い呼びかけで、遠のきかけていた意識は何とか現実に戻ってくることができた。
朦朧とする頭を何とか回転させて外部映像を見れば、アリオスに新型と思しき機体の電磁鞭が絡み付いている。
…なるほど、頭がはっきりとしていないのは、アリオスを捕らえている鞭からくる電撃のせいらしい。
機動力を最大の武器とするこのGN‐007【アリオス】は、中々攻撃を当てることができず敵は苦心することの多いガンダムだが、こうして一度捕らわれてしまうと脆いという弱点があった。
決して装甲は薄くないのが、可変フレーム構造であるせいもあって、特定部分は攻撃に対する脆弱性を有している。
焼き切ってやる、と叫ぶロックオンの作業がうまくいくように、アレルヤは震えながらもなんとかアリオスの腕を思い切り突っ張り、機体と鞭との間に空間を作ることに成功した。
空間ができるのを待っていたかのようなタイミングで、細い鞭をめがけて光条が迸り、新型機の武装のひとつ―――エグナー・ウィップは爆散する。
武器を失ったことに僅かに狼狽する間を逃さず、アレルヤが即座にビームサーベルでもって新型の一機を両断。
まだ砲火は止む気配を見せないが、ひとまずこれで近くの脅威は消えたことになる。
『大丈夫か?』
「…、うん」
『俺はここから動けない。これ以上の援護は期待するなよ』
分かってると思うが、とつけたしながら、ロックオンは尚も防戦を続ける。
彼―――GN‐006【ケルディム】の配置は岩の上で、まさに狙ってくださいといわんばかりの場所だ。
しかし彼はその状況を「見晴らしが良くて逆に好都合」と笑い飛ばし、次々とやってくる敵機を確実に沈め続けている。
補助AIのハロも善戦しているようで、GNシールドビットの動作状況を律儀に報告しているのが聞こえてきた。
今回の作戦はあってなきようなもので、スメラギから言い渡された内容も「トレミーが離脱するまでの間、敵を食い止めておいて」という簡素なものだった。
それはすなわち、まともに戦闘をすることなく、ただ逃げる為の時間を稼いでくれというだけの話である。
要するに防戦と同義なのだが、それについてアレルヤもロックオンも、忸怩たる思いがないわけではなかった。
しかし、ここで彼らとまともに戦端を開いたところで、一体何になるというのだろう。
ただ闇雲に戦っても、数の上で圧倒的に不利といえるソレスタルビーイングに勝ち目はないのだ。
難しいことはよく分からないが、とにかく今は戦うべきではない。
皆それが分かっていたからこそ、スメラギの決定に文句をつけることなく従っているのだ。
それは、アレルヤも同じことだった。
とにかく、今は戦術予報士が望むとおりの時間を作らなくてはならない。
「あと五分―――何としてでも稼ぎ出してみせるよ」
余裕のないこの状況で意味がないと分かっていながら、茶化すようにウインクをして、アレルヤは通信を切った。
殆ど無意識的、あるいは反射的、儀礼的行動に過ぎなかったが…それは偶然にも、かつてのロックオン・ストラトス―――ニールが、緊張しきっているガンダムマイスターたちに対してとった行動と全く同じであった。
そしてそれはやはり、場の空気を僅かながらに変える効果がもたらされる。
「…あの野郎ッ、!」
自分がしたわけでもないのに、やけに気恥ずかしくなってきたロックオンは、憎憎しげに吐き捨てると自棄を起こしたかのように闇雲な連続射撃をした。
しかしそれはあくまで自棄になったように見えただけで、彼の放った攻撃は一つ残らず敵機へと吸い込まれていく。
作品名:オーバーライド・スナイパー(冒頭) 作家名:日高夏