アニマ -5
六道骸は大変に饒舌な男だ。しかし一方で言葉を重ねれば重ねるほど、何かが覆い隠されてゆくのも事実だ。だけれども俺たちは言葉に頼るし、結局それは非常に合理的な手段なのだ。たとえば非日常の話を聞くにしても。
「蜘蛛の糸、という話をご存じですか。おや、綱吉君でも知ってるんですね。いえ、馬鹿にしている訳ではありません。誤解です。ただ、前回の続きをしようと思いまして。
さて、当然僕というか、まぁ、便宜上僕ということにしましょう、は地獄に堕ちました。もう延々と落ち続けましてね。とうとう本能を超克して落ちながら眠りにも落ちることができるようになった頃、ようやく果てが見えたって訳です。剣山です。眼下に広がるのはもう果てのない剣山で、あぁ、僕はそこに落ちるのだと思いました。痛みを想像して一瞬恐れましたが、もう数え切れない年月落ち続けているので、もう死んだってそんなに変わらないとも思いました。
衝撃、一瞬の痛み。目を閉じるとすべて終わるような気がしました。けれども、耳元で声がするのです。『活きよ、活きよ』と。ばらばらになったはずの肉体が血を流しながらよみがえりました。
目の前には六十四もの目を持った鬼がいました。彼は火を吹き、地獄の衆生をいつも追い立てていました。針の山の気の遠くなる様な痛みに耐えながらそこを抜けると、すさまじい熱気が体を焼き、その暑さで炭になってしまうのではないかと思われるほどです。巨大な釜の中で人間が煮られている横で、舌を抜かれ釘を刺されている者、熱した鉄の上を、重荷を背負わされた状態で歩いている者もいます。
「お前、変わった目をしているな」
と隣に立つ鬼が僕の顔をその目でのぞき込みました。正直そいつに言われるとは思いませんでした。鬼の六十四の目はそれぞれ別々に動き、ぎょろぎょろとすべてを見透かすように見るのです。ええ、まなざしより恐ろしい拷問はないでしょう。
しかし僕は、もう何年も落ち続けた訳ですから、当然自分の顔なんて知りません。僕はかろうじて怪物の黒い瞳の中に無数の僕を見ることができましたが、目が変わっているということはよくわかりませんでした。
「右目の数字はなんだ」
しわがれた声で鬼に指摘され、僕ははっと目を押さえました。いぶかしんでいた鬼はしだいに興味を失い、でっぷりと太った顎で地獄の様子を示しました。
「どうだ、怖いか」
「想像していたよりは恐ろしくありません」
「そうか、ではこの恐ろしさ、身をもって知るがいい」
僕は焼けた鉄の枷を手と足にはめられ、拷問を受けに行く人の列に加えられました。列の横で例の鬼の獄卒たちが抜け出そうとする者に鞭で制裁を加えていました。僕の隣になったのは鳶色の目をした少年で、暗い顔をしていました。
「あなたは、新しい人ですか?」
少年は人畜無害そうな顔をしていて、とても悪人には思えませんでした。まぁ、考えれば当たり前ですね。別に彼が悪いことしたって訳じゃありません。悪いのは彼の前世です。
「悪いのは俺の前世だけどまぁ、仕方ないよ」
少年はあきらめたようにそういって、列がのろのろと這うように進んでゆくのをぼんやりと見ていました。
一人一人、煮え湯の中に突き落とされてゆきます。釜の中には刃があるらしく、血のにおいが漂ってきます。けれども耐え難い空腹の中、その臭いすらうまそうだと感じてしまうのです。饐えた臭いのせいで思考が停止していたのでしょうね。
「拷問そのものよりも、待っている時間の方がずっとつらい」
隣を歩く少年がそう呟きます。「そうなんですか」と僕が尋ねると、少年はどうしていいかわからない表情をしました。
「だって拷問の先にあるのは死と再生なんですよ。絶え間ない。寿命が尽きるまで、永遠にこのままです。俺は死ぬのが待ち遠しいな」
それはどの死のことだろうと思いました。転生する死なのか、復活する死なのか。僕にはわからないけれど、とりあえずその時僕たちの番が来ました。鬼たちに釜にむかって突き落とされます。
一瞬にして意識がかき消え、また鬼の『活きよ、活きよ』という声が響きます。僕の体は瞬く間に再生しました。僕たちは再び拷問の列にならび、なかば諦観の念を抱きながら次の責め苦を待ちました。
少年とはしばらく会うことができませんでした。僕はすっかりやせ衰えて、見る影もなく衰弱していました。
あるとき僕は地獄の中心に集められ、そこで新しい拷問に掛けられる予定になっていました。すでに大方の感覚だとか感情だとかが麻痺していた僕は、拷問を想像して恐怖することも、死ぬことを渇望することもありませんでした。
さて、僕にとってのその生の転機がその数秒後。あるいは秒なんていう単位がそこに存在すればですけれど。ふと見た先にいつかみた少年の姿があったのです。彼もまたやせ衰えていましたが、きれいな鳶色の目でわかりました。
彼がまさに拷問に掛けられようとしたところ、僕は勢い余って声を出しました。あまりに長い間しゃべっていないのと喉の渇きとであまり大きな声は出ませんでした。
とにかく僕はなにかわからない言葉を叫びながら彼に向かって走り出しました。もつれた足に地面からつきだした岩がぶつかり、爪の間から血が噴き出しましたが、もう僕は痛みなんて感じませんでした。
そして僕は少年の元まで駆け寄り、びっくりして目を見開く少年を見ました。目に僕がゆがんで映りました。
「あなたはだれですか」
少年はそっと僕に尋ねました。僕はわかりませんでした。鬼が僕を殺そうとしたので、僕は反射的に、その武器を奪って鬼と対峙しました。六十四の目がこちらを見ています。だけれど僕は、彼を倒す方法を何故だかわからないままに知っていました。
そして訳の分からない感覚に任せてその目を一つずつ潰して、今まで僕を苦しめていた鬼が苦しんでのたうち回っているのをサディスティックに見ていました。僕が自分の力に気がついたのはそのときです。
鬼を殺すと、あたりはしんと静まりかえっていました。僕は返り血で酷く赤くて、どろどろに汚れていました。ふと少年を見ると、おびえていました。
「赤い」
震える唇から、か細く声が出ました。
「あぁ、血が……」
「眼が。眼が、赤い」
僕ははっとして自分の目を押さえました。そうこうしているうちに別の鬼がやってきて、僕を捕らえました。それから僕を打ち首にして、それでも意味がないと知ったのか、彼らはあろうことか僕を仏に引き渡しました。
『救われたいか』と仏は問いました。奇妙な仏だ、と思いました。『救われたいか』とそれはもう一度僕に問いかけました。僕は不愉快な気持ちになり、それを拒絶しました。
カタカタと歯車が動く音がして、僕はその仏が機械仕掛けのおもちゃであることを知り、僕は馬鹿らしくなってそれを壊しました。ガシャンと音がなり、仏の首がもげます。そこで僕の意識が途切れました。」
夢のような話を聞いた、と思った。ふぅ、とアンニュイに息を吐いて、向かい側で彼がほおづえをつくので、俺はそれをまねした。
「蜘蛛の糸、という話をご存じですか。おや、綱吉君でも知ってるんですね。いえ、馬鹿にしている訳ではありません。誤解です。ただ、前回の続きをしようと思いまして。
さて、当然僕というか、まぁ、便宜上僕ということにしましょう、は地獄に堕ちました。もう延々と落ち続けましてね。とうとう本能を超克して落ちながら眠りにも落ちることができるようになった頃、ようやく果てが見えたって訳です。剣山です。眼下に広がるのはもう果てのない剣山で、あぁ、僕はそこに落ちるのだと思いました。痛みを想像して一瞬恐れましたが、もう数え切れない年月落ち続けているので、もう死んだってそんなに変わらないとも思いました。
衝撃、一瞬の痛み。目を閉じるとすべて終わるような気がしました。けれども、耳元で声がするのです。『活きよ、活きよ』と。ばらばらになったはずの肉体が血を流しながらよみがえりました。
目の前には六十四もの目を持った鬼がいました。彼は火を吹き、地獄の衆生をいつも追い立てていました。針の山の気の遠くなる様な痛みに耐えながらそこを抜けると、すさまじい熱気が体を焼き、その暑さで炭になってしまうのではないかと思われるほどです。巨大な釜の中で人間が煮られている横で、舌を抜かれ釘を刺されている者、熱した鉄の上を、重荷を背負わされた状態で歩いている者もいます。
「お前、変わった目をしているな」
と隣に立つ鬼が僕の顔をその目でのぞき込みました。正直そいつに言われるとは思いませんでした。鬼の六十四の目はそれぞれ別々に動き、ぎょろぎょろとすべてを見透かすように見るのです。ええ、まなざしより恐ろしい拷問はないでしょう。
しかし僕は、もう何年も落ち続けた訳ですから、当然自分の顔なんて知りません。僕はかろうじて怪物の黒い瞳の中に無数の僕を見ることができましたが、目が変わっているということはよくわかりませんでした。
「右目の数字はなんだ」
しわがれた声で鬼に指摘され、僕ははっと目を押さえました。いぶかしんでいた鬼はしだいに興味を失い、でっぷりと太った顎で地獄の様子を示しました。
「どうだ、怖いか」
「想像していたよりは恐ろしくありません」
「そうか、ではこの恐ろしさ、身をもって知るがいい」
僕は焼けた鉄の枷を手と足にはめられ、拷問を受けに行く人の列に加えられました。列の横で例の鬼の獄卒たちが抜け出そうとする者に鞭で制裁を加えていました。僕の隣になったのは鳶色の目をした少年で、暗い顔をしていました。
「あなたは、新しい人ですか?」
少年は人畜無害そうな顔をしていて、とても悪人には思えませんでした。まぁ、考えれば当たり前ですね。別に彼が悪いことしたって訳じゃありません。悪いのは彼の前世です。
「悪いのは俺の前世だけどまぁ、仕方ないよ」
少年はあきらめたようにそういって、列がのろのろと這うように進んでゆくのをぼんやりと見ていました。
一人一人、煮え湯の中に突き落とされてゆきます。釜の中には刃があるらしく、血のにおいが漂ってきます。けれども耐え難い空腹の中、その臭いすらうまそうだと感じてしまうのです。饐えた臭いのせいで思考が停止していたのでしょうね。
「拷問そのものよりも、待っている時間の方がずっとつらい」
隣を歩く少年がそう呟きます。「そうなんですか」と僕が尋ねると、少年はどうしていいかわからない表情をしました。
「だって拷問の先にあるのは死と再生なんですよ。絶え間ない。寿命が尽きるまで、永遠にこのままです。俺は死ぬのが待ち遠しいな」
それはどの死のことだろうと思いました。転生する死なのか、復活する死なのか。僕にはわからないけれど、とりあえずその時僕たちの番が来ました。鬼たちに釜にむかって突き落とされます。
一瞬にして意識がかき消え、また鬼の『活きよ、活きよ』という声が響きます。僕の体は瞬く間に再生しました。僕たちは再び拷問の列にならび、なかば諦観の念を抱きながら次の責め苦を待ちました。
少年とはしばらく会うことができませんでした。僕はすっかりやせ衰えて、見る影もなく衰弱していました。
あるとき僕は地獄の中心に集められ、そこで新しい拷問に掛けられる予定になっていました。すでに大方の感覚だとか感情だとかが麻痺していた僕は、拷問を想像して恐怖することも、死ぬことを渇望することもありませんでした。
さて、僕にとってのその生の転機がその数秒後。あるいは秒なんていう単位がそこに存在すればですけれど。ふと見た先にいつかみた少年の姿があったのです。彼もまたやせ衰えていましたが、きれいな鳶色の目でわかりました。
彼がまさに拷問に掛けられようとしたところ、僕は勢い余って声を出しました。あまりに長い間しゃべっていないのと喉の渇きとであまり大きな声は出ませんでした。
とにかく僕はなにかわからない言葉を叫びながら彼に向かって走り出しました。もつれた足に地面からつきだした岩がぶつかり、爪の間から血が噴き出しましたが、もう僕は痛みなんて感じませんでした。
そして僕は少年の元まで駆け寄り、びっくりして目を見開く少年を見ました。目に僕がゆがんで映りました。
「あなたはだれですか」
少年はそっと僕に尋ねました。僕はわかりませんでした。鬼が僕を殺そうとしたので、僕は反射的に、その武器を奪って鬼と対峙しました。六十四の目がこちらを見ています。だけれど僕は、彼を倒す方法を何故だかわからないままに知っていました。
そして訳の分からない感覚に任せてその目を一つずつ潰して、今まで僕を苦しめていた鬼が苦しんでのたうち回っているのをサディスティックに見ていました。僕が自分の力に気がついたのはそのときです。
鬼を殺すと、あたりはしんと静まりかえっていました。僕は返り血で酷く赤くて、どろどろに汚れていました。ふと少年を見ると、おびえていました。
「赤い」
震える唇から、か細く声が出ました。
「あぁ、血が……」
「眼が。眼が、赤い」
僕ははっとして自分の目を押さえました。そうこうしているうちに別の鬼がやってきて、僕を捕らえました。それから僕を打ち首にして、それでも意味がないと知ったのか、彼らはあろうことか僕を仏に引き渡しました。
『救われたいか』と仏は問いました。奇妙な仏だ、と思いました。『救われたいか』とそれはもう一度僕に問いかけました。僕は不愉快な気持ちになり、それを拒絶しました。
カタカタと歯車が動く音がして、僕はその仏が機械仕掛けのおもちゃであることを知り、僕は馬鹿らしくなってそれを壊しました。ガシャンと音がなり、仏の首がもげます。そこで僕の意識が途切れました。」
夢のような話を聞いた、と思った。ふぅ、とアンニュイに息を吐いて、向かい側で彼がほおづえをつくので、俺はそれをまねした。