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Ageratum

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車の中は静かだった。
 フォードA型のエンジンは軽快な音をたてているが、葵と葛の二人は先ほどから黙ったきり会話を交わしていない。
「すまん……」
 何も言葉が浮かばなくて、それだけ言うのが精一杯だった。身体の節々が痛みを訴えているが、今の葛にはどうでも良かった。
「理由を言うつもりもないってことだろ?」
 葵が呆れたようにため息をつく。
 言える訳がない。任務とは関係なく、自分の気持ちだけで動いてこの結果を招いたのだから。
「まあ、詮索するのは俺の柄じゃないしな」
 はは……と葵が笑う。
 彼なりに気を使ってくれているのだろう。
 なのに、葵の声がやけに遠くに響く。
 拷問を受けて、耳をやられた訳ではない。
 自分の心が何処か遠くに置き去りにされているのだ。
 あの夏の日に。
 蝉がうるさく泣いて、日差しの強かったあの日に。生い茂った木々の影と自分を呼ぶ声と、そして、痛みだけが鮮烈に記憶に焼き付いている。
「あのさ」
 ふいに葵の声の調子が変わった。
「苦しくない?」
 葵の手が横から伸びてきて、葛のネクタイに触れた。
 自分の思考に入り込んでいた葛は、それに気付くのが一瞬遅れた。
「よせ!」
 葵の手を強く払いのける。
「何す……っ!」
 葵が口を尖らせる。
 葛は緩められたワイシャツの襟首を慌ててかき合わせた。
 葵に、見られただろうか。
「お前、それ……」
 鏡を見ていないので分からないが、おそらく首筋にはそれと分かる痕がいくつか残っているだろう。首筋だけではなく、全身にはもっといくつもの痕跡が。それは拷問ではなく凌辱の痕だった。
「……何でもない」
 葛はわざとゆっくりとネクタイを整えた。
「何でもないって……」
 葵が呆然とつぶやく。
 正面から気がそれて、横の路地から出てきた車にクラクションを鳴らされた。葵が慌ててハンドルを握り直したが、車が少し蛇行する。
 彼は外見の陽気さに似合わず、非常に聡い男だ。葛が国民党のアジトで受けた仕打ちに考えを巡らせ、そして正しい結論に至ってしまったのだろう。
「何でもないんだ……」
 呼吸を整えるのに、少し時間がかかった。
 そう。なんでもない。
 何度もそう自分に言い聞かせて生きてきた。理不尽な仕打ちは今に始まったことではなかった。こんな些末なことで打ちのめされていては、自分の望む未来になど進めはしないのだから。
 葵がどんな反応をしようとやりすごす自信はあった。
 葵はしばらく無言で前方を見つめていた。
 さっきまで気にならなかったエンジン音がやけに大きく響く。
 虹口地区のメインストリートが見えた時に、葵が突然ハンドルを右に切った。狭い路地に入り込み、車を止める。
「貴様、道を……」
 明るかった視界が急に暗くなって、そのコントラストに眼が慣れない。
 訳が分からず、葛は葵を見た。
「葛」
 葵がハンドルから手を離し、ゆっくりと葛に覆いかぶさってくる。
 葵と葛、二人分の身体の重みを受けて、皮の座席がぎしりと音を立てた。
「何でもないなら」
 葛の顔に葵の吐息がかかる。
 葵は無表情だった。
 力で勝てない訳ではない。むしろ、格闘になれば自分の方が有利だ。
 しかし、この時、葛は葵を怖いと思った。
「俺にもやらせろよ」
 口の端を上げて葵が微笑む。
 そこには彼のいつもの陽性の気質は全く見えず、人を見下し、嘲るような男の顔があった。三好葵という男の皮が一枚剥がれて、知らない人間がいた。
 自分にそういう顔を向けられたのは初めてではない。しかし、葵にそんな顔を向けられたことは衝撃だった。
 葵の手が葛の胸に伸び、一つ一つボタンを外していく。
 本気で葵は葛を抱こうとしているのだと思った。
「馬鹿を言うな……! よせ!」
 全身で葵を押しのけながら、顔に一発拳をくれてやった。
 鳩尾にナイフを刺し込まれたような気がする。
 殴ったのは自分なのに息が苦しい。
 裏切られたと思った。
 自分の愚かさに吐き気がする。彼だけは自分を裏切らないと、心の何処かで信じていたのだ。
 殴られた葵は車の天井に頭をぶつけて「いてて……」と呻いていたが、しばらくして立ち直ると葛の方を見てにやりと笑った。先ほどとは全く違う笑顔だった。
「嫌なんだろう」
 表情でなく言葉に心を抉られる。
「なら、もう二度と」
 葵の顔から笑みが消えた。強い光を湛えた眼がまっすぐに葛を見つめてくる。
「もう二度と、そんなことを言うな」
 その瞳があまりにも真剣で、葛は何も答えられなかった。
 葵はふうーとため息をつくと、がしがしと二、三度頭をかいた。そして、車の前方へと向き直ると、再びエンジンをスタートさせた。
 今度は、車はまっすぐに二人の根城へと向かっているようだ。
 葵の表情には先ほどのような険しさは全く見られない。
 葛は混乱していた。
 葵が演技をしていたことに安堵している自分がいる。しかし、この胸の内にわだかまる不可解な感情は一体何なのだろう。
 葵の横顔を見つめる。
 何故。
 何故、お前がそんな泣きそうな顔をしているんだ。

作品名:Ageratum 作家名:黒川志貴