Love bites
「南半球にでも行ってみるか」
そんな跡部の一言で、気が付けば南半球が島はバリ島に来ていた。
いきなりのことに戸惑いながら、それでも「行く!」と即答した二日後には現地入りである。この辺り跡部の段取りの良さには舌を巻くが、しかし何故バリ島なのか。
「あ?日本がいつまでもだらだらと寒いからに決まってんじゃねぇか」
それ以外に何かあるのか?
逆に問い返されて、一瞬、自分の恋人である跡部のグローバルさに遠い気持ちになったが、どちらにせよ既に来てしまっているのだから今更どうこう云っても仕方がない。それに、自分にとって跡部が傍に居ない状況なんて考えられないわけで。ただ単純に彼が行くから付いていく、というだけではなから場所は問題ではなかった。何はともあれ初の海外旅行、しかも跡部と二人っきり。これで楽しまなければ損だろう。
空港から車で一時間ほど走らせたところで、「南の島」というイメージから少し離れる閑静な住宅街に辿り着いた。降ろされたのは白を基調とした邸宅である。空の深い蒼と、強い日差しに照り輝く白のコントラストが眼に眩しくも美しい。
「何ぼっとしてんだ、行くぞ」
屋敷の管理人らしき人物から鍵を受取り、先に進む跡部の後を慌てて追う。
広々とした吹き抜けの玄関を抜けると、扉を挟んだ向こうは、およそ四十畳はあるリビングになっていた。温もりのある生成り色のカバーが掛るソファが三点。間に木目調のローテーブル。映画を見るには良さそうな大画面のテレビにやはり木目の家具類。意外にも照明はシャンデリアではなく、普通の機能的なものであった。全体的に白と茶色で統一された部屋は、シンプルな趣味の良さを感じさせるが些か来客を招くための家には見えない。何というか、『跡部家』の持ち物にしては地味なのである。勿論、無造作に置いてある置き時計一つ取っても、きっと自分の一年間の小遣いくらいはするのだろう質の良さは窺えるのだが。
そんな疑問が顔に出ていたのか、跡部が薄く笑って、
「この家は俺個人の持ち物だ。人を呼ぶための家じゃない」
ああ、やはり。自分の感想は間違ってはいなかった。そう、この部屋はどこか跡部の住む本家の部屋に雰囲気が通じている。そのお陰か、初めての家なのに知らないという気がしない。
一人で納得して頷いていると、跡部は部屋の奥にある大きく枠取られた窓へ向かいカーテンを勢い良く開いた。
「この景色が気に入って衝動買いだ」
そう、どこか自慢気な笑みを湛えこちらの様子を窺う。けれど、その眼下に望む景色に気を取られ息を呑む自分にとって、そんなことはどうでもよかった。
美しい。
その言葉しか思い付かない。窓の向こうは、延々と続く海岸線。複雑な碧の色彩を持つ海に沿って白い砂浜があり、更にその陸地には元住民の家がおもちゃのように立ち並んで、一枚の絵画のように存在していたのである。
色鮮やかな海、一点の染みもない砂浜の白、家々の木の暖かさに、日本とは違う濃い植物の緑、原色の空気。
これらが、自分達が住む場所とは異なる文化を持った異国なのだとひしひしと実感させられる。
跡部が気に入った、というのが良く判る。まさしく南国を象徴したような美しい眺めだった。
「気に入ったか?」
跡部が、聞かなくても判っている答えをねだってくる。見ると、肯定の言葉しか予想していない表情だ。まるで、自分のお気に入りの宝を自慢する幼い子供のような表情に吹き出しかけながら、大きく頷く。確かに、この景色は見事で、自分もかなり気に入ったので。すると、跡部はどこか偉そうな態度から一転して、心底嬉しげに頬を緩ませた。自分のお気に入りを他人も認めてくれたというのが嬉しいのだろう。けれど、ここはあえて、相手が自分だからだ、ということにしておく。そう思いたくなるほど、跡部の笑みは無邪気で健やかだ。出来れば自分のための笑顔だと思いたいではないか。
日本に居る時よりもリラックスしている跡部を見るのは自分にとっても嬉しいことだ。今、この時だけでも、家も、学校も、テニスもすべて忘れて、楽しめばいい。そして俺のことだけ考えていて。そう願いながら、ゆっくりと跡部に近付き、腕に閉じ込め、本日最初のキスをした。
二人以外誰も居ない家の中で、場所を選ばず気が向いた時に睦み合う。そんな、夢のような日々。
視線が合えば頬を寄せ、指を絡め、緩く、甘く微笑みながら唇を触れ合わせる。軽く啄ばんでは離し、瞳を合わせて再び重ね合わせた。今度は深く、濃密に舌を絡め、吸い、口内をなぞる。微かにぶつかり合う歯に笑っては、盛り上がる興奮を沈静させた。
焦る必要はないのだ。時間は、まだ、たくさんある。
目的を唇から、頬、耳朶、うなじ、首へと次第に下へ。
辿る道すがら紅い跡を付ければ、それは想いの刻印となる。甘い、官能的なその印。
指先で身体を辿れば、その微かな感触に震えるしなやかな肌、潤む瞳に揺らぐ視線。
どうしようもなく欲情を煽るその表情。
次々と柔らかな箇所に増える紅印を眺めると、止められない劣情と満たされる安価な独占欲に満足を覚える。きっと、跡部には判らないだろうけれど。
「なに一人で満足してるんだよ」
そんな風に、うっすらと口元に笑みを浮かべて誘われては乗るしかないではないか。
もっと中へ、と乞われて断れるほど大人になんてなれない。子供のように夢中になって、艶かしくうねる肢体を貪った。身体中に、それこそ本人ですら確認できない場所にまで跡を残しながら。
「なんで……、そんな顔、してるんだ」
軽く息を乱して、緩い眼差しで跡部が問う。
きっと、彼には一生判らない。
日本を離れたこの地ですら、彼を飾りたてる装飾に過ぎない。手に入れた物を愛でる瞳に、その物に、彼を奪われたような嫉妬を憶えたなんて、云える筈もない。
云ってもいいのだけど、本当は。でもきっと、笑って本気にはしないから。
答えを促す眼に唇を落として、その強く輝く瞳に蓋をして、一人遊びのような秘め事にうっすらと笑みを浮かべた。
増え続ける無数の印は、
言葉にしない無言の自己主張。
白い滑らかに映えるその紅は、
消えることのない愛のため息。
彼は自分だけのものなのだと、
俺だけが知っていればいい――――。
作品名:Love bites 作家名:桜井透子