秋の初めの風景<氷帝>
部室の扉を開くと、そこにいたのは跡部だけだった。ちらりとこちらを見たが、すぐにまた視線を手元に戻す。日吉の会釈は届いたかどうかわからない。
跡部がいると踏んでここへ来たわけなのだが、実際にいざ跡部の姿を目の前にするとどう話を切り出していいものか迷った。跡部はこちらの存在などかけらほども気にしていないのか、見事なまでの黙殺っぷりだ。
それでもこちらに気付いていないわけではないのだから、と日吉は姿勢を正して口を開いた。
「跡部部長」
返事はない。聞こえていないはずはないが、と思いながらもう一度呼びかける。
「部長」
やはり反応がない。手にしている雑誌から目を上げる気配すらない。苛立ちを覚えたが、しかしあることに気付いてもう一度呼んでみた。
「跡部さん」
「なんだ」
今度はすぐに応えがあった。日吉が跡部から氷帝テニス部を引き継いでそろそろ一カ月、もう自分のことは部長とは呼ぶな、とそういうことなのだろう。
(なら、部室を我が物顔に使うんじゃねーよ)
そう言ってやりたいが、言えない。他の三年生ならまだしも、この部室には跡部の(というか跡部家の)私財も投じられている。他の誰よりも我が物顔に振舞っていいのが、跡部だ。
「お話があるのですが」
「つまらない話なら聞かねえぞ」
「部活のことで」
「俺は忙しいんだよ」
「どう見ても暇そうじゃないですか」
跡部が手にしているのは漫画雑誌だ。彼が進んで買うようには思えないので、忍足か向日か宍戸か、そのあたりの持ち物だろう。跡部はまた視線を雑誌に落としてページをめくる。さほど熱心そうには見えない。
「何かあったのか」
「……特に目立っては」
そう、特に目立って何かがあったというわけではない。全国大会に出場し、全国五位という成績を残して跡部たちの学年は引退した。残された面子の中で、部長に推されたのは日吉だった。本人にとっては意外な人事でもあった。なにしろ日吉自身は、関東大会でも全国大会でも負けを喫している。立ち位置としては準レギュラーだった。氷帝の長い歴史の中で、準レギュラーで部長になったものはいない。日吉自身も、鳳が美長を務めるものだろうと思っていた。もう一人、レギュラーの座を守っている樺地よりは、鳳の方が無難に部長を務めるだろうとも思っていた。
だが、ふたを開けてみると、指名されたのは日吉だった。鳳にも樺地にも異論はないようだった。日吉の方がうろたえて詰めよってしまったほどだ。だが、二人は揃って「日吉が一番向いている」と口にした。榊からも、辞退するなら代理を指名しろと言われた。
結局日吉は引き受けたのだが、跡部のようにはできないということを日々実感するばかりだ。日吉自身の練習は準レギュラーとしてのもので、レギュラー陣の練習を実際に統括しているのは鳳だった。居心地が悪い、というほどではないが違和感はある。おそらくこの違和感を他の部員も感じているのだろうと思うと、妙な焦燥にもかられた。しかし、上へ上がるには部内戦で勝たねばならない。部内戦の予定は、まだ当分先だった。
「ならなんだ。手に負えないとでも泣き言を言いに来たか」
跡部の声が笑いを含む。からかうような声音に、反射的にカッと全身の血が熱くなった。
「そんなことはありません!」
声を張って言いかえす。その音量に、跡部はうるさそうに眉根を寄せた。その態度にも日吉は神経を逆なでされた。
「跡部さんが気になることでもあるかと思って報告しようとしただけです。ないならば、失礼します!」
自分でも論法がめちゃくちゃだという自覚はあったが、声高に言いきって踵を返す。跡部に対抗するには勢いまかせであること。そのくらいのことは日吉も覚えていた。
三年生たちは部活に参加しなくなったkが、それでもスクールに通ってテニスを続けていることは知っている。それならばたまには顔を出しに来ればいいのにとも言おうと思っていたのだが、やめた。それも弱音だととられかねない。
いずれ彼らの予想以上の結果を出して、それでぎゃふんと言わせてやる。そう心に決めて、日吉は部室を出た。背後から、くつくつという笑い声が追ってきたが、気にしてはいられない。
もうすぐ昼休みが終わろうとしている。今日の練習メニューを頭の中でくみたてながら、日吉は憤然と渡り廊下を進んだ。
「あ、日吉!跡部さん、いた?」
廊下の向こうから呑気な声をかけてくる鳳も腹立たしい。
「いた」
「予算のこと、訊いた?」
問われて、思い出す。そういえば、予算編成のことについても相談しようと思っていたのだった。カッとなってそのことまで失念した自分に、内心で呆れる。だが、それを鳳に悟らせるわけにはいかなかった。
「きいていない」
「え、なんで」
「きかなくても何とかなるだろ」
そう言い捨てて足を速める。待ってよ、といいながらすぐに鳳が並んできた。コンパスの差があるとはいえ、それも腹立たしい。
「何かあったの?」
「別に」
何もなかった。本当に、何も。
「まあ、日吉が何とかなるって言うならいいけどさ」
そう言って鳳はそれ以上の追及をやめてくれた。並んで歩きながら、日吉は視線だけでちらりと部室を振り返った。何事もなかったかのような風景だ。
もう何も頼るまい、と改めて心に決める。途端、満足そうな跡部の笑い声が聞こえるようだった。
作品名:秋の初めの風景<氷帝> 作家名:速水