秋の半ばの風景<比嘉>
遠く沖の方から白い波頭を立てて海が寄せてくる。大きなうねりは、今日はいつになくくすんだ鈍い色だった。海岸沿いの椰子の木が大きくたわんで、ばらばらと葉の切れ端が飛んでくる。ささくれだったひとつがむき出しの二の腕を掠めていって、甲斐はかすかに顔をしかめた。傷が付いたり血が出たりするようなことではないけれど、不快な痛みだ。
ごう、と音を立てて、今度は波しぶきが飛んできた。近くなる潮の香り。ぱたぱたと頬にあたる水滴は、口に入らずともどことなく塩辛い気がする。
「甲斐くん」
呼ばれて振り返ると、見慣れた姿が近付いてくるところだった。均整のとれた体躯は、この風の中にあって少しも揺るがない。いつもと違うのは、さすがに幾筋か乱れた髪が額に落ちかかっていることくらいだ。
「こんな風の時くらい、帽子は脱いだらどうですか」
開口一番で説教じみたことを言う木手に、思わず甲斐は苦笑した。
「えー、えいしろーこそ、眼鏡が邪魔そうさー」
混ぜ返してやると眉をひそめられる。誤魔化したと思われたのかもしれない。いつも彼の表情を隠して近寄りがたい雰囲気を増長している眼鏡には、いまは細かな水滴がたくさんついていた。これではかえって視界が悪いだろうと、甲斐はただ単純にそう思っただけだ。話題を逸らす意図などありはしなかったのだが、その真意はどこまで伝わっているのかわからなかった。そもそも木手は裏を読みすぎるきらいがある。そこには裏などないこともままあるにも関わらず、だ。
「さすがに部活は休みですか」
「さすがになぁ」
台風が近い。雨はまだ降り始めていないものの、この風ではボールが流されてしまってテニスどころの話ではなかった。部活が休みの連絡を回して、全員に回ったことを確認してから甲斐も学校を出てきたところだ。
全国大会から帰ってきて、三年は部活を引退した。新垣が木手から部長職を引き継いだのはそれと同時だ。部長会の日程、予算申請の方法、部費で購入するものの決済のやり方、対外試合の申請書の書き方。そういった事務的なことを淡々と伝えたのち、部室の鍵を新垣に手渡して、それで木手は部長職を終えた。副部長としてそこに同席していた甲斐は、木手のことだからきっと長々と部長としての心構えや部の運営方法などを説くものだと思っていた。だがそんな気配は一切なく、拍子抜けしてしまったほどだ。
その気配が表に出てしまったのだろう、あの時木手は甲斐の顔を見て小さく笑った。しかし、何も言わないまま、ひとつ新垣の肩をたたくと踵を返して去っていったのだ。残された甲斐は、同じく残されてどこか不安そうな新垣をそのままにしておくわけにもいかなくて、なんとなくそのながれで週に二、三回は部活に顔を出すようになってしまった。新垣に不安を感じているわけではないし、部に問題があるわけでもないのだけれど何となく気にかかる。副部長でいた間はそんなこと考えたこともなかったのに、と思うと少しおかしかった。対して、木手は一切部活に顔を出さなくなったので尚更だ。
思えば、木手とまともに顔を合わせるのはあの引き継ぎの日以来のことだった。端然としたたたずまいは引退しても何も変わらない。ひときわ強く風が吹いて、また水しぶきが飛んできた。さすがに帽子を押さえた甲斐に対し、木手はひとつ溜息をつくと眼鏡を引き抜く。レンズの表面を見て僅かに逡巡したようだったが、かばんから眼鏡ケースを取り出すとその中にしまった。それを見ていた甲斐の視線に気付くと、微かに眉を寄せる。
「なんですか」
「いや」
眼鏡をはずすと目付きが少し剣呑になるので(目が悪い人間にはよくあることではあるのだろうけれど)それはそれでやはり近寄りがたい雰囲気になる。損な奴だな、とは思うが木手自身があえてそれを選んでいる節もあるので口にしたことはない。きつい目で睨みつけるのだけは勘弁してほしい、とも思うが。
「……部活の様子はどうですか」
しばし続いた沈黙を破ったのは木手の側からだった。強い風の音と同じくらいの声。聞き逃しはしなかったが、思わずまじまじと木手の顔を見てしまった。
「……なんですか」
先ほどよりも若干決まり悪そうに繰り返す。その様子に、思わず甲斐は頬が緩んでしまった。
「えぇ気になってんなら来ればいいあんにー」
「……まあ、もう少し落ち着いたら」
歯切れの悪い口ぶりは、何か思うところがあるからだろう。わかるような気もしたし、そんなことは気にしなければいいのにとも思う。
「新垣はよくやってるぜ?」
「そんなことは心配していませんよ」
むしろあなたがたが新垣くんの邪魔をしているのではないかということが心配です。ついと顔を背けてそんなことを言う木手は、相変わらずだ。比嘉中テニス部を誰よりも大事にしていたのは間違いなく彼で。だからこそ、彼は後輩たちには自分の影響を残したくないのだろう。
思わず笑ってしまった瞬間、先ほどよりも強く風が吹いた。咄嗟に反応が間に合わず、帽子が浮きあがって飛んで行ってしまう。
「あ!」
手を伸ばしたが届かない。風にもまれて、かなりの気に入りだったキャップは灰色の海へと落ちてしまった。すぐに波にもまれて見えなくなる。
「あきさびよー……」
「はっし、だから脱いだらどうかと言ったでしょう」
説教じみた口調は、木手が部長だった頃には毎日聞いていたものだ。今はそれが妙に懐かしくて、腹が立つよりも先に笑ってしまった。
「何ですか」
「いや」
そうそうすぐには変わらない。人も、組織も、何もかも。
「えいしろー」
「だからなんですか」
「明日は一緒に部活に行こうなー」
突然の誘いに、木手はわけがわからないというように眉を寄せている。それには気付かないふりで、甲斐は踵を返した。規則的な足音があとを追ってくるのを知っている。
台風が去れば、きっと明日は晴れだ。
作品名:秋の半ばの風景<比嘉> 作家名:速水