僕が未来を描けたのは、
確かにこの爪は閻魔大王の首と胴を切り離した。
この細い身体の何処にと思うくらいの量の真っ赤な血液が噴水のように辺りに飛び散って、白い床も壁も自分の体も赤く染めたのだ。彼の血も赤いのだと当たり前のことをまるで不思議のように思った。
「大王…、」
「馬鹿だね、鬼男くん」
笑うのは床に転がった彼の首だ。
呆然とした声が出た。死ねぬ身と言えど、首を落とせばと思っていた。それでなお生きていられるわけは無かろう、と。
あはは、はははは、と壊れたように笑い続ける頭を、椅子に座ったままだった胴体が立ち上がって、拾い上げた。
彼の手が慎重に頭を元の位置に乗せると、時間を巻き戻すように皮膚が結合していく。
何の悪夢だ、これは。
普段よりも更に青白く見えるのは、血液を流しすぎたからだろうか。
大王は具合を確かめるように首をぐるりと回すと、最後に血塗れの帽子を拾いいつものように頭に被った。
「どうして…」
どうして死なないんですか、と言おうとしたのに、舌が凍りついたように言葉は出てこなかった。
あぁ、彼は本当に、どこまでも「冥府の王」なのだ。串刺しにされようと首を落とされようと、死ぬことの無い絶対の。
これは恐れだろうか。僕は彼を恐れたのだろうか。
「本当に、馬鹿だよ。君は」
溜息のような声が頭上から降ってきた。
そこには本人にも整理しきれないくらいの感情が入り混じっている気がして、僕は彼を殺せなかった右手を硬く握り締めた。
伸びたままの爪が皮膚に食い込む。血が掌を濡らす。当たり前のように痛い。
「…大王……」
「なぁに、鬼男くん」
彼は飄々と返事をする。いつものように。
「痛かった、ですか」
僕と、同じように。
彼は面食らったように2、3度瞬きをして、
「そりゃね。今も血が足りなくてふらふらだよ」
と、さっき自分の首を切り落とした僕にいつものように笑いかけて、ひやりとした手で頬に触れた。
消されてしまうのかと思った。それは、そうだ。僕は冥府の王を殺そうとしたのだ。その罪の重さは、計り知れないほどに違いない。それに、彼にかかれば僕程度の鬼を消すなんて、赤子の手を捻るより簡単だろうから。
自然と強張った頬を蝋のような指がそっと撫でていった。
「…ま、許しましょ。もう散々刺されてるし慣れっこだよ。どうせ、死なないんだしね?」
顔を上げると真っ赤な目とかなりの近距離で見詰め合うことになる。奥を覗こうと思えば、どこまでも覗けてしまいそうだ。それほどに澄んで、深い瞳。吸い込まれてしまいそうな赤色。
「気持ち悪いだろ?これが閻魔大王だよ。君はよく解っていなかったみたいだけど」
だから君は私を恐れなかったのだろ?と彼は笑った。笑って、立ち上がる。…行ってしまう。
自嘲的な笑顔だ。彼がよく見せるそれ。僕は、僕はそれが。
「僕はあなたを救えませんか、大王」
僕はそんな笑顔を見せる貴方が嫌いで。そんな笑顔をさせる「閻魔大王」が嫌いだった。
あぁ、嘘だ。貴方のことは嫌いになれそうもない。
ドアノブに手を掛けていた彼が顔だけ振り返る。その顔に、感情は何も乗っていなくて。
「無理だね」
あっさりと切り捨てられた。必死で掻き集めた希望を全部叩き落とすような言い方だった。
「僕じゃ力不足ですか」
「まずは身の程を知ることだね。…でも、でも、ありがとうね」
着物の裾を翻して、ひらりと出て行ってしまった。開いたままの扉を、僕は暫く見つめていた。
「…、」
不毛な行為。刹那的な笑顔。整理のつかない感情。終わりの見えない思い。
本当に救いようが無いのは、どちらだというのだろう。
作品名:僕が未来を描けたのは、 作家名:壱助