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合宿三日目、午前5時。

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じりり、と携帯のアラームの鳴る音で村越は目を覚ました。
……ここは、どこだ?
一年のうち数ヶ月はホテル暮らし。目覚める度に毎朝繰り返す問いかけとともに、村越は枕元を探る。
仰向いた視界に、青と金色の明け方の光に染まる天井が見える。安普請なそれに、ここがETUの合宿施設であるといささか情けない確認をする。
ここは合宿所で、今は合宿の真っ最中だ。思い出すのと同時に、携帯電話を掴んだ。手元へと引き寄せてアラームを切り、液晶を眺める。
「五時……15分前か」
昨日の晩、何時頃眠ったは思い出せないが、自宅だろうがホテルだろうが驚くほど変わりのない生活をする村越にはさほど重要なことではなかった。どうであれ、日付の変わる前には床に就いているはずだ。ならば、最低でも四時間半は寝ている計算になる。問題はない。それどころか今日は妙に体が温まっている。
調子がいいな。
すっきりと目が覚めたせいか、手も足も、指の先までぽかぽかとしている。おまけに精神的にも満ち足りている。
なにか、いい夢でも見たのか?
別段、夢判断など気にするような性質ではないが、どういうわけか今日は目が覚めた時から、気分が高揚している。今すぐ、朝食を採る前に1kmマラソンをしろといわれても、今朝の自分ならば苦もなくこなせてしまうだろう。
「……んっ」
そんなことを考えていた村越の耳元に、かすかに高い声が届いた。続けてふわりと暖かで甘い香りのする風が頬を掠める。
生き物の気配がする。最初に感じたのはそんなことだった。
それから、ちらりと風の方向へと視線を向けて、村越はぐっ、と喉を鳴らした。見慣れたチームメイトの男が、村越の腕の中ですうすうと健やかな寝息を立てていたのだから当然である。
「ジ、ジーノ……っ、んっ!」
叫び掛けた口を慌てて塞ぎ、反射的に男の裸の両肩を押しやり跳ね起きる。
村越よりも遙かに軽い体は、横寝をしていた体を押されてすんなりころりと転がった。
なぜ? 確かに眠る前に、悪ふざけのすぎる男を意趣返しで抱き込んだ記憶があるが、まさか朝までこのままで眠るだなんて。
どうせ、夜中に離れていくだろう、そんなことを考えていただけに目覚めてすぐの光景は村越の心臓を直撃した。おまけに……。
「俺が、抱いて、いたのか?」
ほかほかと指の先まで暖かな掌を見下ろす。腕には吉田の重みと温もりがまだはっきりと残っていた。
「どうりて、暖かいはずだ」
時折、同室の者から利かせすぎると窘められるエアコンが、目覚めた時には寧ろ暑いと感じるほどだったのも腕に抱いた男の体温か。
「……んっ、さ、さむ……」
村越らしくもなく動揺を引きずる頭で考え込んでいると、吉田が小さく呻く声が聞こえる。その声に呼ばれてちらりと横目で見遣れば、きゅっと眉を寄せた吉田が身を震わせるのが見えた。村越が転がした折り、体を包むシーツがはがれたのだろう。剥き出しの肌を隠すように卵の形に小さく丸まっている。
風邪を引かせてはまずい。毛布を掛け直してやろうとベッドを揺らさぬように慎重に四つ這いの姿勢で吉田の元に進んだ村越は、けれど眠る男の前でしばし固まってしまう。
「本当に……」
本当に、こいつはサッカーセンスと造作ばかりはいいのだから。
真っ白なマットレスへとさらさらとした黒髪を散らし、シーツへと無造作に巻き付けたなり、緩やかに手足を折り曲げて吉田は眠っている。その姿はいつかどこかで見た生まれたての天使を村越に連想させた。もっとも、男の本質は宗教画に描かれるような敬虔で厳かなそれではなく、その無邪気さ故に人々をひっ掻き回す古典的な戯曲に描かれる方であったけれども。
けれど、だからこそ人は彼に引き寄せられ、振り回されてしまうのだろう。どこか吉田には危うい魅力があることは村越もよく知っている。だからこそ、本当に性質が悪い。
村越はふっと口元だけで微笑むと、そろりと手を伸ばした。
さらさらとした黒髪を数度、手で梳き、そのまま高い鼻梁のその先を指でそっと摘む。
「んっ、ん……くるし……」
小鼻を抓まれ呼吸を止められて、暫くされるがままだった吉田はやがて嫌々をするように緩く首を振り村越の指先を解く。むずがる子供の表情できゅっと寄せられた眉はますます村越の笑いを深めた。
「ざまあみろ」
朝っぱらからこちらの心臓を止めようとするからだ。
くくく、と喉の奥で機嫌よく笑った村越は、ぐっと身を乗り出し真上から吉田を見降ろした。
薄く開いた唇から、真っ白で健康的な歯が零れていた。そのつるりとした光沢に引き寄せられるように、村越は今度は吉田の口元へと指先を忍ばせる。
尖った犬歯に爪が当る硬質な感触がする。温かな吐息が指先を湿らせ、次いで村越の人差し指がびろうどのような舌先に触れようとする、その刹那。
「んぁ……っちぃ」
ばさりと音を立てて、赤崎が足先の毛布を跳ねあげた。今にも吉田の口元へと指先を忍び込ませようとしていた村越は反射的にその手を引き戻す。
まるで冷水でも頭から被せられたような気分だ。俄かに現実が押し寄せてくる。呆然と呟いた。
「なん、だ」
今、俺はなにをしようとしていたのだ。
たった今、夢から覚めたように、はたと我に返った途端ばくばくと心臓が高鳴る。猛烈な羞恥に襲われ、手のひらで己の顔を覆った。
「ほんとうに……なんだ?」
自分で自分が分からない。最早この場から一刻も早く逃げ出したい気分で後じさりをし、けれどその足を止めると村越は己のベッドから毛布を引き剥がす。天井へと視線をそらしたまま、吉田の上に被せた。
「……ん、ふぅ」
温もりに包まれて、吉田がほっと柔らかな息を吐く音が聞こえる。仰向いた視界のままそれを確認すると、今度こそベッドから降りた。逃げ込むような速足で、バスルームへと向かう。
少し冷静になったほうがいいようだ。そのために、一先ず冷たいシャワーでも浴びることにしよう。
脱衣所で寝巻代わりに着ていたTシャツに手を掛け一息に捲りあげ、けれど村越はそのままよろりと足をもつれさせると、扉へと背中を預けた。
ふわりと鼻先に、甘い香り。
共寝をした村越のTシャツへとすっかりと馴染んでしまった、吉田の移り香だ。理解した瞬間、ばくばくとまたぞろ激しく高鳴り始めた心臓に、自分で自分が分からなくなる。
「……俺は、どうしたって言うんだ」
力なく呟いた村越は年甲斐もなく途方に暮れ、15分後やはり少しばかり早めにセットされた赤崎の携帯のアラームが鳴りだすまで、呆然とその場に立ち尽くしていた。


おしまい。
作品名:合宿三日目、午前5時。 作家名:ネジ