幸村と仁王の話
パコン、と乾いた音を立てて黄色いボールが軌道を描く。
相手の元まで届いたボールは、すぐにまた軽快な音を立てて打ち返された。
目の前の14インチの箱の中で繰り返されるラリーを、もう何度も眺めている。
そのラリーはもちろん2人の人間にによって続けられているのだが、観察する対象は1人だ。無駄のないそのプレイスタイルは、月並みではあるがやはり『綺麗だ』と思わずにはいられない。
「そんなに近くでずっと画面睨んでたら視力が落ちるよ」
彼がやはり無駄のないフォームでサーブを打った時、それを観察していた自分の傍で急に声がした。声がした方を見上げると、薄く笑みを湛える部長様が立っていた。
「ならもう少しでかいテレビを買ってくれんかのう」
「馬鹿言え。そんな部費余ってたら、他に買い換えたいものがある。男テニ専用機があるだけいいと思いなよ」
中学生の部活に映像再生機能付きのテレビを部専用に用意するなど、簡単に話しが通るわけがない。それでも幸村が俺や柳のプレイスタイルを考えて、立海男子テニス部の功績の為に必要な道具だと申請をし、なんとか許可を得て(それから備品を少し我慢して)購入した貴重な1台だ。
「仕方ないのう。まあ、これでもだいぶ助かっとるし。アリガトウゴザイマス、幸村部長」
「うっわ、胡散臭い!誠実さが感じられない!」
「酷い言い様じゃな…」
「ダッツのキャラメルマキアートで手を打とう」
「…ガリガリくんにしてくれんかの?」
中学生の財布事情をなんだと思ってるんだ、などとは口にはせず、情けなく見上げると、幸村は「仕方ないなぁ」と言いながらクスクス笑った。
そんなやりとりの後に、自然と訪れた沈黙。
屋外からじわじわと夏を染み込ませるような蝉の鳴き声が聞こえる。モニターからは相変わらず打球の跳ねる音が響き、二人してその試合を食い入るように見ていた。
「やっぱり、彼のテニスは綺麗だね」
ふいに幸村が漏らした言葉は、数刻前に自分の脳裏を過ぎった言葉と同じだった。
「なあ、仁王。絶対に負けない方法を知っているかい?」
相槌を待たずに投げかけられた問いに、思わず傍らを見上げた。
それに合わせるように俺に視線を下ろした幸村は、少し間を置いてから俺の返答がないことを確認すると、続けて口を開いた。
「ボールを相手のコートに入れさえすればいいんだ。どんなボールでも打ち返して相手のコートへ入れればいい。それさえすれば『負け』はしない」
言い切る幸村の言葉は力強い。確かにその通りだと思う。
だが、それは……
「まあ、だからみんな『返せないボール』を打つ為に、新しい技を考えたり、その精度を上げる為に練習するんだろうけどね。でも確実に勝ちたいなら、負けないテニスをするのが一番安全だ」
そんなテニスは―――
「…なんだかつまらんぜよ」
自分のテニスは、意表をつき、相手を出し抜くこと。
「自分らしさ」がないことこそが、自分のテニスだ。あまり良く評されないことがあるのも知っている。人の模倣をしているのだから当然かもしれない。だが生来この性分であるし、自分はこのスタイルが楽しくて仕方がないのだ。 対戦相手にはどのタイプのプレイが効くのかを考え、選らんだ選手を観察し、限りなく完璧に近い状態の本人になる。そうやって作り上げる作業も好きだし、試合ごとに違うプレイが出来るのが面白い。
そんな俺からしてみれば、堅実だが型にはまったような変化のないテニス、というのはどうにも窮屈で面白味に欠ける。
「それでも彼は、チームの勝利の為にこのプレイスタイルを選んだ。華美ではないが、実に綺麗なテニスだ。彼が『聖書』と呼ばれるのは、何もそのプレイスタイルが基本に忠実で無駄のない正確なテニスだというだけじゃなくて、決定打には欠けるかもしれないが、負けることはない。その確実性のことも指してるんじゃないかな」
幸村はそこまで言うと、ふとモニターに視線を戻した。
それと同時に画面からわっと歓声が上がる。つられて自分も視線を戻すと、審判が試合の終了を告げていた。
もちろん1ゲームも落とすことのない、白石の完璧な勝利だった。
「俺は彼のテニス、好きだな。勝つ為には、まずは負けないことだ」
画面に映る白石の姿から視線を外さぬまま、幸村はそう言った。
その声の強さには、俺には分からないような思いが込められているのかもしれない。
彼もまた「勝たなくてはならない部長」なのだから。
プツリと映像が途切れた。
録画してあったのはその試合が最後だったらしい。幸村と少し話し込んだおかげで、幾つか見逃した点があったのでもう一度再生しようとリモコンを手に取った。
「不二のカウンターを全て返したという点だけでなくても、イリュージョンの題材に白石を選ぶのはいい選択だと思うよ。さて、うちのペテン師がどんな聖書になるか、楽しみだな」
「……なんだか、やけにプレッシャーを掛けられてる気がするのう」
「いやだな、期待してるんだよ。さて、これ以上邪魔しちゃ悪いから。俺は戻るよ。あ、帰りコンビニだからね」
ちゃっかり念押しして部屋を後にする幸村を片手を上げるだけで見送り、扉が閉まる音を聞いてから再び再生ボタンを押した。
パコン、とまた打球の音が響いた。
end