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吉野ステラ
吉野ステラ
novelistID. 16030
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仮初めにも言えない。

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寂しいなど思ったことはなかった。
人生に貪欲でもなかったし、人を自分から愛することなどできないと諦めてもいた。
ただ平穏無事に生活を送ろうと思っていただけだ。
それは自分のためではなく、とにかくたった一人の弟を安心させたいという思いによるもので、それが静雄の生活の全てだった。
これまでは。




シャワーを浴びて一日の疲れを落として、静雄は冷蔵庫の中から缶ビールを取り出した。
ぷしゅ、と缶を開けて口に運んだところで、玄関にスニーカーが並んでいるのが目に入る。
自分のものではないが、見覚えはあった。
(あれ、正臣来てんのか?)
きれいに揃えられた靴は、紀田正臣が愛用しているものだった。
どうやら静雄が浴室にいる間に訪ねてきたらしい。
静雄は家に鍵をかける習慣があまりなかった。危機感が薄いというよりは、この池袋最強の男はその必要性をまったく感じないからと言った方が正しい。
タオルでごしごしと髪の毛を拭きながら部屋に入る。
しかしテーブルの周りもベッドの上にも少年の姿はなかった。
「正臣?」
声をかけるも反応はなし。
ベランダの方を見るとガラス戸が10cm程開いていて、その向こうに人影が見えた。
そこか。
静雄は無造作にガラス戸を開いた。
秋の風が入ってきて、濡れた髪の毛を微かに冷ましていく。
夜の街にちかちか瞬く街の光を、ベランダの手すりにもたれかかって金髪の少年が眺めていた。
煙の匂いが静雄の鼻につく。
手すりの向こうに投げ出された少年の指には煙草が挟まれていた。
「こら、未成年」
こつん、正臣の後頭部を静雄は指で軽く小突いた。
すると、ガコン、と正臣の額が派手な音をたてて手すりにぶつかった。
「いだっ!!!」
「おい、大丈夫か?」
「静雄さん~~~」
正臣が目に涙を浮かべて静雄を振り返った。
「悪ぃ、強かったか」
静雄は自分の手を見つめてにぎにぎした。
本当に力加減とは難しい。いつもは、天性の勘なのか正臣が絶妙に避けてくれるので事なきを得るのだが(そんなところは臨也によく似ているのだが、敢えて考えないようにする)、不意打ちだったようだ。
無言で反省する静雄を見て、笑いながら正臣は言った。
「なーんてね。大丈夫っすよ俺の頭はハガネのように頑丈だからさっ」
あははーとわざとらしく笑って正臣はそのまま煙草を口に加え、再び外に身体を向けた。
目を閉じて息を吸い込んで、煙草を口から離す。そして静かなため息のように唇から煙を吐き出した。
風が吹いてさらさらと金色の髪の毛が揺れた。
白い煙がなにかの言葉のように風にのって流れていく。
そんな正臣から、目が離せなかった。
「それ、俺のだろ」
「だって俺、普段タバコ持ってないっすから。未成年だし?」
相変わらずの軽口で答えが返ってくる。しかし彼はこちらを振り向かない。
その背中が泣いているようで、手を伸ばそうとして、しかし静雄は動かなかった。
かわりに持っていた缶ビールを口に運ぶ。しゅわしゅわと口の中で気泡がはじけた。

こんなときに、相変わらずかけてやれる言葉が俺には見つけられない。
こいつが俺の中でどんどん大事な存在になっていることには変わりないのに。

「静雄さんはさぁ、何で俺にこんなに優しくしてくれるの」
ぽつ、と正臣が虚空に向かって呟いた。
「え?」
ぎく、と静雄の動きがとまる。
「こうやって気遣ってくれるし、叱ってくれるし、いつ来てもいいって言ってくれるし?
俺知らなかったよ全然。こんなに静雄さんが優しいなんて」
(んなこと、俺だって知らなかったよ)
ずっと俺のことを恐れて避けるやつばっかりだった。たとえ近寄ってきたやつがいても、俺の怒りを呼び起こす羽目になって結局終わりだ。一緒にいたいと思う人間がいないわけではなかったが、全部俺の暴力で台無しになった。
だから俺はやめたんだ。人を求めるということを。
気に入らないヤツはぶっ飛ばす。それがシンプルでいちばん簡単だったから。
(お前こそ、なんで俺のところに来るんだよ)
なんで俺の傍に来てくれるんだよ。
自分の方が聞きたい疑問だったが、それはとても口にすることができなかった。
「静雄さん」
「え?」
気付けば正臣が目の前にいた。
至近距離で静雄を見上げていた。無言で。
遠くで光るネオンが、正臣の瞳に映りこんでちいさく瞬いた。
「まさ…」
じゃり、と音がして、正臣が背伸びをしたのが分かった。
そのまま少年の瞳が近づいて、息を呑む間もなく静雄の唇にやわらかくてあたかいものが被さった。
少年の唇。
「!」
驚いて微かに開いた口に、煙がすうっと流し込まれる。
正臣がくゆらせた煙草の煙が、静雄の口内を占拠する。
慣れ親しんでいる銘柄な筈のそれは、静雄の知らない味がした。

唇がそっと離れる。
歪んだ正臣の眉。潤んだ瞳。

「静雄さんは…下手だよね、愛してるって人に言うのがさ。ま、それは俺もなんだけど…」

「だから、嘘でもいいから言ってよ。練習台でもいいからさ」

愛してるって。

「じゃなきゃ俺…」

正臣の指から煙草の灰が風にのって飛んでいく。
赤くパチ、と火花が光る。





愛しているなんて、言えない。

大切だからこそ、なお。

俺は人を傷つけてしまうから。

言えない。

仮初めにでも。

「…悪ぃ、正臣」

煙と一緒に吐き出した言葉は、とてもとても苦く。
そして、暴力よりももっともっと
正臣を傷つけた。




「はは…そうすよね…」
渇いた声が空に響いた。











ひとり。
星も月の光もない都心の空を静雄は見上げた。
寂しいなど思ったことはなかった。
もう人を愛することはないと思っていた。
なのにこの胸の空虚感はなんだ。
なぜこんなに苦しい。



きっと少年は泣いている。
それが分かっていたのに、
なぜ俺は…


「正臣…」


少年から口移しで伝わってきた苦い苦い味が

静雄の中に残って、離れない。