二代目の憂鬱
「古泉」
俺がそう呼ぶと、机に向かってキーボードになにやら打ち込んでいた古泉は一端手を止め、こちらを向いた。爽やかな笑みを浮かべるそいつは、どうみても親父と同じくらいの歳には見えない。どこまでも世俗的ではない雰囲気を漂わせているが、俺は古泉が世間を知らないわけではないということを知っている。少なくとも俺よりは。俺と古泉は20歳もの差があるのだから。
「もう八時だから飯、食おう」
「おや、もうそんな時間なんですか?どうにも熱中しすぎると時間を忘れてしまいますね、いけません」
「邪魔した?」
「いいえ、とんでもない。ちょうどおなかが減っていたところなんですよ。おそらくあなたが呼びに来てくれなかったら、このままお腹が減り続けて動けなくなっていたでしょう。そうなると大変です」
そんなことを古泉は真剣な口振りで言うので俺はちょっと笑ってしまう。実際古泉にしてみればジョークでもなんでもないのだろうが、やっぱりこいつはどっか変だ。どうして笑うのかという疑問をはらむように顰められた眉も、おかしかった。気にするな古泉、俺は箸が転んでもおかしい年頃なんだよ。
「今日でどのへんまで進んだんだ」
くるくるとパスタをフォークに巻き付ける古泉を見ながら、俺はそう言った。古泉は翻訳を生業にしている。洋書を日本語に訳すとかいうあれだ。
「六分の五あたりでしょうか。まさに佳境という感じですね」
へぇと俺は相槌を打ちつつずぞぞ、とパスタをすすった。古泉が訳すのはたいてい恋愛小説だ。ミステリーもののときもあるが、その場合炎のように熱く燃える恋愛事情が描かれている。要するに古泉は恋愛事情を表すのが得意、らしい。らしい、というのは俺が、古泉の訳している本を一冊も読んだことがないからだ。読もうとしたことはある。でも、挫折した。俺は同年代の奴らと比べたら、比較的本は読む方だ。ただ、洋書が苦手なだけ。カタカナで書かれた名前や地名がまったく頭に入らない。何度も読もうとはするものの、登場人物の名前を覚えられずに最初からということがとても多い。「別に無理に読まなくてもいいんですよ」と古泉は言うけれど、やはり一冊くらいは読み終わりたいと思う。「僕のは読みづらいですからね。もっと読みやすい……そうですね。『ああ無情』くらいから読んでみてはいかがですか」それじゃあ意味がない。意味がないんだ古泉。お前の本が読みたいんだ。昔から、古泉に預けられたときに聞かされる物語が好きだった。わくわくしたしどきどきした。それらのストーリーが古泉の与えた言葉できらきらと輝いているような、そんな感覚がしていた。名前が覚えられないだけではない。今は印刷された文字からも、きらきらと輝く言葉が伝わってきて、なんだかいっぱいになってしまって読めなくなってしまう。ばかみたいだ。
片づけが終わってキッチンから出ると、古泉はソファの上で居眠りぶっこいていた。「まったく俺はお前のおかんか」など呟いてみたら無性に恥ずかしくなり、そこらにちょうどよくあった壁を殴りつけた。手を痛めた。とっさにでそうになった叫びは喉の奥に押し込み、飲み込む。締め切りが近い、のだろう。しかしいくら疲れているとはいえ、ソファで眠るのはあまりによろしくない。以前ソファで寝こけ、ものの見事に風邪をひいたというのを、親父からの話で知っていた。もうそう若くないんだから、無茶するなよ。
「古泉、起きろ」
肩をもって揺するが、起きない。
「古泉。古泉ぃ。古泉一樹!」
もう一度、呼びかけてみるが起きる気配すらない。やれやれと溜息を吐く。いつもより下にある頭。それを撫でてみる。昔自分がされたように。
いまだ無防備に眠り続ける古泉を見ながら、俺のこれも恋愛小説のように終わりがあればいいのにな、と思った。