夜汽車は二人を
気のついたら、伊達は伊達の半歩後を歩いていた。それが数年前のことである。その距離はだんだんと大きくなっていって、今ではすっかり離れてしまっている。伊達は伊達のシャツに包まれた薄い背中を見ながら歩いている。そうして、それがどういう了見なのかも判っている。前を歩く伊達はもうあのころのことをすっかり忘れてしまっている様子である。そうして、後ろを歩く伊達にそれをすっかり押しつけてしまっている。やはりひとつの肉体にはひとつのひとの人生しか刻まれぬものらしい。後ろを歩く伊達には、今現在のことがどうにもあやふやである。昔のことならばいくらでも思い出せるというのにだ。
そういうふうにできている人間というのに出会ったことはなかったが、時折これもそうなのだろうなと思うときがある。すれ違うひとの背中のあたりがかすれて見える。そこになにかが覆いかぶさっているように。あれは半歩ずれた段階だ、と伊達は踏んでいる。今の前を歩く伊達と後ろを歩く伊達のように、完全に分離してしまえばそういうふうに見えることはないのだろう。もはや彼と彼をつなぐのは一本のか細い糸のみである。髪の毛よりも細い糸だ。伊達が、前を歩く伊達に逆らって歩みを止めれば今にもその糸はちぎれるだろう。そうしてようやく彼は過去のなにもかもから解放されるのだ。平和な世で育った幼いこどもが、ひとの肉を斬る感触に怯えて寝床で縮こまるような、そんな理不尽な夜ももうこなくなる。
ならばどうして己は今伊達の一歩後ろを歩いているのだろう。そう思ったときに、ず、と世界が揺れた。歩みを止めたせいである。糸が切れ、伊達は自由になった。向こうから歩いてくる人間が、友人と談笑しながら細めていた目をゆっくりと伊達に向ける。その後ろのそれも然りである。それの糸が切れた音さえも伊達には聞こえた気がした。
よう、と伊達は声をかける。お久しぶりでございますと真田は答えた。伊達と真田がつながっていた彼らは、いっとき視線を合わせてそうしてまた離れていった。そんな二人を見送って、彼らもまた視線をかち合わせる。……何年ぶりだ。さあ、大阪でそなたの陣を遠目に見たぐらいからでござろうか。勝手に俺の知らん場所で死にやがって。そなたこそ、のうのうと床で息を引き取られたこと、知っておりますぞ。
しばらく肩を震わせて笑い、真田は伊達の目をのぞきこむようにした。今一度、お会いできてようござった。ぱちぱちとその暗い目の奥で火花がはぜる。そこに己の姿が映り込んでいる。ゆきましょうかと真田が言った。
電灯が明滅を繰り返している。深夜である。駅舎はとっくに閉まっている時間帯に、その無人駅はぼんやりと光を放っていた。布で包んだ槍を背に、真田は駅舎を抜けてゆく。伊達もまた六本の爪を詰めた布袋を持ち上げてその背中に倣った。ホームはやはり無人である。しかしそう思っただけで、時折伊達の視界をかすめてゆく影がある。お互いに干渉できぬ次元にいるのだろうと伊達は思う。今の伊達と、その一歩先を歩いていた伊達のように。
やがてホームに列車が滑り込んでくる。やはり伊達には乗客は見えぬ。そこに、ひとの形をした歪んだ空間を見るのみである。はっきりしているのは真田の背中だけだ。彼は後ろに伊達がいるのを確認して列車に乗り込んでゆく。四人掛けのボックス席に二人して並んで腰掛け、向かいの席に重い荷物を置いた。程なく列車は走り出す。車輪が線路を噛む音が無遠慮に伊達の体を揺らす。寒うございましょう。真田が荷物の中から毛布をとりだして、自分と伊達の体にかけた。準備がいいな。今宵は冷えると。確かに車窓から見る夜空はしんと透き通っている。だが残念ながら、伊達のからだはそういう気温をとらえられない。じり、と真田が距離を詰めた。伊達と同じように車窓をのぞきこんで、どこで降りましょうなあと呟いた。だだっ広い場所がいいだろうな。そうでござるな、邪魔の入らぬ、広い場所がようござる。そう言う真田のなまあたたかい息が頬のあたりにかかってくすぐったく思う。思わず首をすくめると、真田がかすかに笑う気配がする。毛布の下で、じりじりと真田のてのひらが動く。座席に落とした伊達の左手を握り込んで、あたたこうございますなと呟いた。
今日の昼間、伊達と真田から分かたれたあの二人は、この先お互いのそういうことも知ってゆくのだろうと伊達はぽつりと思った。互いのてのひらの温度や、息のなまあたたかさや、耳元で囁かれる声の低さ。それらは、かつてのあの日に自分達が知り得なかった事柄である。自分達は、互いの血の赤いのや、炎槍の燃える切っ先、雷刃の痺れる感触しか知り得なかった。そうして、それで充分であると考えていた。そういう世の中であったし、今の自分もそれで事足りると考えている。この列車の行き着く先はそういうものでできている世界だ。
ただ、と伊達は思う。首を少し傾げ、横に並ぶ真田のふっくらとした頬を見つめる。それに気づいた真田が眩しそうに目を細めた。……なにやら、こそばゆうございますな。伊達もまた真田の手を握り込みながら、そうだなと答えた。あの日いっときでもそれ以上のことを望んだならば、この男のてのひらの温度を知った上で逝けたならば、この列車の終着は違うものになったろうか。……そういうことを、考えている。列車はすっと静まって、線路の継ぎ目を車輪が噛むガタガタという音のみがしんしんと足下に降り積もっている。