夢のあと(短編集)
かさぶたが癒えたあとも残る痛みを君は知っているか
「ネクタイ、」
指摘されて自らの胸元を見下ろす。確かに長谷川から見れば不格好なのだろうが、沢木にとっては精一杯の努力の末に作られた結び目だったから、思わず表情が歪むのが分かった。
無論、長谷川は結び直したりなどしてはくれない。自分が満足するまで沢木に結び直させるのみだ。そしてその基準が分からずに沢木は四苦八苦する。結局、時間のせいで長谷川が妥協し、沢木はそれならはじめから放っておいてほしいと思う。
沢木の学会デビューから約半年。今日もまた鞄持ち扱いではあるが、樹教授について黒塗りの車に乗り込むことになっている。研究のためには人脈も必要だからね、とは教授の珍しい実用的な助言だ。
「今、何時っすか?」
「あたしは時計じゃないわ」
「……そうでした」
ということは出発までにはまだ時間がある。ため息を吐くと、沢木は今日三度、鏡で見る限り着られている感が抜け切らないスーツのネクタイを緩めた。
はじめは張り詰めていた緊張感も今はない、ただ、綺麗にそれを結ぶことだけに神経を使って――。
「ねぇ、」
「はい?」
「今日も結城に会わないの」
「はぁ」
「先生がこぼしてたの、沢木君は夜の付き合いが下手だねぇって」
「……わざわざそんな言い方をしなくても」
「あたしもそう思うわ」
でもあの人が言うと怪しくないな。心の中でぼやいた。
「けど、話を逸らすのには感心しないわ。それとネクタイもう一回」
「えぇー……」
「思いっきり左右不対称じゃないの」
「これは、さっき長谷川さんが話しかけてきたからで」
言いかけて沢木は口を噤んだ。先程の台詞が動揺に値するものだとはとても思えない。それなのに触った結び目は予想以上に不揃いだったから、仕方なく4回目の結び直しに入った。
と同時に、ひとつの可能性に思い当たる。
「長谷川さんがそんなこと気にするなんて珍しいっすね」
これだ。蛍の話題で動揺する必要性など自分にはない。
「食いかかってくるあなたも十分珍しいわよ」
追及するがごとき視線から逃れながら沢木はため息を吐く。何の意味もない行動を深く解釈されてはたまらない。
何故、こうまで煩わしいのだろう。蛍がふわふわしながらも結局両極端を走っていた気持ちが分かるような気がした。無論同じ芸当はしない。第一沢木には走るべき極端がなかった。
菌は、今も側にいる。忘れっぽい(世帯交代がやけに早いのだから当たり前だ)彼らはいつも漫才をする相手は覚えていても学校で毎日顔を合わせる人間でさえ次の日には知らないとほざきはじめる。嫌気が差したわけではない。むしろ沢木にとっては楽な傾向だ。ただ時たまの差し入れに混じる結城酒造の酒についてくる酵母にだけは閉口した。一週間かそこらは蛍との面会をせがまれる。
(ていうかあいつら、アレが蛍だって分かるのか……?)
答えは分からない。第一今や沢木の持つ蛍のイメージさえ曖昧模糊としている。最後に会ったのがいつかは思い出せなかった。
ただ酷く懐かしくて。
「沢木って、流されやすいけど冷たいわね」
「……そっすか」
「そうよ」
長谷川は美里のことを考えているのだろうか。それとも実家のことを考えているのだろうか。いつか宏岡が言っていたことは当たっていた。このひとは、誰もが思っているより人情に流されやすい。
けれど沢木は決して人情に流されているわけではない。状況に流されているのだ。
だから蛍には会うべきでない。彼との接触は沢木を混乱させるだけだった。目の前に立つのはあのころの結城蛍ではない、けれど幼馴染みの沢木と蛍がいた場所を作り出す希有な存在。とっくになくしてしまったものを思い出させる存在。もうふたりともそこにいないのに。
「長谷川さん、」
「いいわ。もうそれで」
思い出すのは苦しくて。ひとりきりでいた自分に話しかけてくれた蛍。祖父とは違う意味で甘やかしてくれた蛍。
隣にいるだけで、懐かしくて痛々しくて泣きそうになるのだ。
なんだかんだで待ってくれるようになった長谷川が立ち上がる。認めてくれたということだろうか。分からない。それがはっきり分かるまでは、少なくとも自分は蛍に会うことはないだろう。そう思った。
(了)