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飢(うえる)

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「―――石田三成」

 その声は地を這う修羅のようで、その実空から降ってくるような、奇妙な響きである。
 三日月の前立てと漆塗りの兜、その奥には黒金造りの眼帯。大仰な装具に覆われて、その顔はほとんど窺い知ることができない。唯一、眉庇の陰から強烈な光のようなものが差して、それが真っ直ぐに三成を射抜いているのは判然としていた。

「理由は要らねえ。アンタを潰す」

 朗々と歌い上げるように宣告するその男は、確か上田で見た男だ。
 あの時とは心なしか、纏う気迫の種類が違うように思える。それが一体何なのか、三成は知らない。変化も何も、元々この男のことを何も知らないのだから知りようがない。

「貴様は誰だ」
「アンタに以前、負けた男だ」
「そんな事は知っている」

 上田で刑部からそう聞いていた。聞きたいのはそんな事じゃない。

「貴様は、何だ?」

 その男は三成にとって、不可思議の塊であった。快も不快も、今の時点では何も感じていない。今までこんな物に出会ったことはない。未知の生き物だった。
 三成には、わからないのだ。何故この男が、自分にこれほど執着しているのか。負けた憂さを晴らしたいのなら、秀吉様の命を奪ったあの男を倒せばいい。そうすれば自ずと自分の優位は回復できるであろう。だが男は、『三成』に執着しているのだ。わざわざ家康に組してまで、何故自分の所へとやって来るのだろう?
 三成はもはや、何も持っていない。空っぽだ。復讐を促す怨嗟と、一振りの刀。この手に残ったのはそれだけで、他人に執着されるようなものは、何一つ持っていない。闇に満たされて、故に空虚である。その自覚は、流石にある。

「貴様は何故、私に執着する」
「執着……だァ…?」

 その言葉が癪に障ったのか、一段声が低くなって警戒が滲んで見えた。後ろに構えた従者にも、緊張の色が走る。
 しかし、三成の心は動かなかった。

「貴様は―――何なんだ?」

 傍目には、三成の影が揺らいで見えただろう。刹那の間に、三成は男との距離を詰めていた。

「ッな――!?」

 一気にその距離を一尺ほどに縮めた三成を見て、男の顔に動揺が浮かぶ。殺気を持たない三成の動きに反応できなかったと見えて、慌てて身を引こうとするが三成の方が速かった。踵を浮かした男の腰に腕を回して、強引に引き戻す。

「て、め―――!?」

 つんのめった男を自分の身体に押し付けて動けなくする。身長の加減で三成の胸当てに視界を占領された男が、がばっと顔を上げた。その勢いで飛んできた兜の前立てを、寸手のところで顔を背けて躱す。
 政宗様、と男の後ろで従者が叫ぶのを聞いた。そうか、政宗というのかこの男は。

「邪魔だ」

 文字通り目の前を通過する三日月を、兜ごと男の後頭部の方へ押しやった。顎紐だけを引っ掛けて兜はずり落ちる。その下から鹿毛のような髪が現れて、風を受けてゆるやかに膨らんだ。
 従者は今にも切り掛からんとばかりの形相で闇を匂わす気配を纏っているが、当の本人は兜を脱がされたことで呆気に取られ、抵抗さえ忘れて三成を見上げている。防衛本能のように、男の手は自然と刀の柄を求めて動く。三成は男と刀の間に回した腕に力を込めて、更に男の身体を密着させた。半ば引き上げるようにして引き寄せられて、男は爪先立ちになる。

「…、何の、つもりだ……?」

 闇から覗く光のように見えた独眼は、白日に晒せば空の色を映して秋色の夜を思わせた。重厚な兜の下で陰を成していた肌は白く、眼帯にかかる前髪だけが、そよそよと風に揺られている。静まった瞳に警戒はなかった。向こうからも明らかに、無意識的な関心が向いてきている。今の彼と自分は、同じような気分でいるのだろうと、ぼんやり思った。

「政宗」
「……………は、あ…!?」
「何だ?違うのか?」
「…………………」
「おい、違うのかと聞いている」
「あ、や、……違わねえが…」
「そうか」

 『政宗』が下の名であることは分かっていたが、上の名を知らぬのだから他に呼びようがない。腹に据えかねるのなら、向こうも下の名で呼べばいいことだ。

「私は、石田三成という」

 ろくに見えなかった男の顔を見て、こんな顔をしていたのかと思うと同時に、三成はようやく彼と初めて会った気がした。



 執着は生きる理由たりえるが、執着されることもまた、生きる理由たりえるのだ。三成はそのことを、まだ知らない。




100927 天草
作品名:飢(うえる) 作家名:かるま