掣(おさえる)
朝から鈍色の切れぬ曇天が続いても、纏わり付くような湿気はない。九月も早半ば。空が遠くなった。屋上には誰もいない。それを良いことに上へ手を伸ばしてみる。翳した掌の分だけ、空が持ち上がる気がした。
「駄目だぞ」
不意にその手を掴まれる。Ah、と振り返る前に、掴まれた手首を軸にして、くるりと半回転させられた。そこには、頭半個分ほど高い同級生の姿。いつからそこに居たのやら。
「まだ何も言ってねえだろ」
「……また、おまえは鳥になりたいと言い出すだろうと思ってな」
言い当てられても、素知らぬふりを通した。鳥になりたいと思ったのは、諸国を平らげるために戦ばかりを繰り返したあの頃。諦念気味に、血腥い地上から飛び立ってしがらみから解放されたいと、少しばかり思ってしまった。今の気持ちは、前とは半ば異なる。
「飛ばねえし、飛びたかねえよ」
背負うのが当たり前であった前世に比べて、今生の命の、何と軽いことか。こんなの、鳥と変わりはしない。しかし地に足を着いて、背中の軽さに怖気が立った。身一つで生きる命の、何と心許ないことか。
「ああ……離れさせたりしないとも」
家康の手に力が入る。真摯な瞳に射抜かれて気恥ずかしい。他人を見て表情を繕うことを久しくしていないから、顔に出てしまっていたのかもしれない。腕を強く引かれて、そのまま分厚い胸板に抱き込まれた。戦の世の中でもないのに逞しい身体だ。以前、理由を聞いたところ、身の丈くらい大きくないと政宗の横に並べない気がするのだと言っていた。前世でチビスケ扱いしたのがよっぽどショックだったのだと見える。
「苦労して手に入れた絆を易々手放すほど、ワシはお人好しではない。何よりワシは、泰平に生きる竜を見ていたかったのだ」
これが権現様の言葉だとは、学会の名だたる先生方も信じないだろう。
雲が裂けて、秘色の空が顔を出す。寂しさのあまり、あの青に溶けてしまいたいと思ったのだが、空の隙間から差し込む陽光はやはり暑苦しくて、「暑苦しい」と憎まれ口を叩きながら、その腕の中でもがいてみせた。
100914 天草