撃(うつ)
「………ふー………」
他国の領主の風評というものは、自国に入ると大低悪くなる。当たり前といえば当たり前のことだ。誰もが自分の国主が最上だと思いたい。それに他国の評判が悪く流れていようと基本的に害はないので、尾鰭が着きまくっても誰も訂正しない。
だから民間に流布する噂話はいろんな形と解釈を持っている。例えば、村一つに軍を派遣するにしても、保護下に置いただとか略奪目的だとか何処かへの進軍の足掛かりだとか様々な推測が付いて回る。
「…………Hum…?」
風評を気にするのは、大将として器の小さいことだとは思う。しかし気にせずにはいられないのが家康の性分であった。外からの評価が気になってしまう。本当に己は変われたのか、この道が太平の夢に通じているのか、確認したがってしまうのだ。他人の目がなければ自信が持てないようでは、まだ己は『少年家康』のままなのだろう。そう恥じてはいるけれど、何とか誤魔化してはいるけれど、易々と心は変貌しない。
「家康」
呼び掛けられて、はっと我に返る。伊達政宗。数々の悪評を得ながらそれを微塵とも気にせず、破天荒を繰り返す青年武将。家康が少年の頃から憧憬の念を抱いていた人物のうちの一人である。その彼が今、家康の目の前で―――というか、真横で畳に寝転んでいた。胡座を掻いて座る家康の横で、何の躊躇もなく仰向けにごろんと。
右目殿がこの場に居れば小言の一つや二つ、三つくらいは飛んだだろうがこの場に彼はいない。その理由として挙げられるのは、彼我は友人であり、さらにはおそらく恋仲であるからだろう。『おそらく』というのは、その関係がまだ軽く接吻を交わすだけに留まっているからである。それ以外にも、理由はある。今、家康を悩ませているのは主にそのことだった。
「どうかしたか…?」
彼は仰向けのまま腕を伸ばした。節くれだった指が家康の眉間をつつと撫でる。皺を寄せて、難しい顔をしていたようだ。
「考え事を、少々――……ん?痛たたたた!!」
「Hum、オレと居る時に良い度胸してんじゃねえか」
「痛い痛い痛い、悪かった!!」
政宗は、ぎゅううううと家康の頬を抓っていた指を外した。思わず凹んでやしないだろうかと確認する。六爪を操る手は指圧だって半端じゃない。
「どうせ、辛気臭ェこと考えてやがったんだろ?」
「………そういうお前は、機嫌が良さそうだな」
否定することも出来ず、話題を変えつつその顔を恨めしく見遣る。政宗は鼻を鳴らして、不敵にも見える微笑を浮かべた。だが、普段よりも険は取れているような気がする。微妙な表情の見分けがつくようになったのは、つい最近のことだ。
「ああ。ご機嫌だ」
「理由は…聞いてもいいか?」
「辛気臭ェことばっか考えてた」
「………は?」
即答に、目を点にして聞き返す。彼は益々得意げな笑みになって、
「ヤなこと考えンのは、アンタの隣に限る」
政宗は、幼子が寝付く時のように目を細める。その中に潔白な色を見つけて、家康の胸に火が踊った。
「アンタといると……ひび割れた部分にお日さんが差してくるみてぇで、光が満ちてくようで………あったけえんだ」
うっとりとした顔を浮かべる彼は、戦時に見せる凶悪さから正反対の位置にあった。だが、やはり彼は彼なのである。そう言わせる何かが心を掴んで離さない。ただ、優しい穏やかな顔が似合う男である。
「わ、しは…そんな、大袈裟な人間じゃない…」
直視できなくて、呻きつつ視線を逸らした。彼の柔らかな顔を見ていると、最近後ろめたい気分に駆られるのだ。
この部屋が、二人きりのこの部屋が、
このまま現から離れていけばいい、
とか、
「……家康…?」
言ってはならない、一言がある。己は彼の奔放さに惹かれたのだ。酷評や侮蔑をものともせず、その後追尾するであろう噂を懸念することもなく、自分の生き様を貫く。その姿に惚れたのだ。恋仲になりたいと言うことすら気が咎めた。まして彼の生きる道を阻害するような欲望を口にすることは、誰よりもまず、家康自身が許さない。
しかし、
「…何か、あったんだろ」
勘違い、するのだ。
己に向けられる断定的な物言いが。他には見せない柔らかな笑みが。まるで己は許されているかのように。彼を『所有』することが出来るかのように。
「なァ」
家康の抵抗も虚しく、政宗はしつこく迫り続ける。頬に痛いほどの視線を感じる。
「……………Hum…」
必死で視線を逸らし続けていると、政宗は不意に短く嘆息した。その弱々しさに聴覚が敏感になる。
「……こういうことを言うのは柄じゃねえが――」
観念したような声で、政宗は起き上がって胡座を掻く。しばらくの間のあと、彼は髪をがしがしと乱しながら、
「――オレはな、アンタの笑った顔が、一番好きなんだ」
「…っ!? まさむ……!?」
驚きで顔をばっと上げれば、いつもの不敵を照れ笑いにした政宗の顔。
「……you see?」
だから望みを言えこの野郎とばかりに、政宗は鼻を鳴らし、満足げに笑う。歓喜が膨れ上がって胸が詰まる。
「言いたい…ことが、ある」
「言え」
「……お前が欲しい……と、言っても、いいか……?」
「Good job!ご褒美だ、くれてやる」
己が独占欲の塊であることは自身が重々承知している。抱き寄せれば身体を預けてくる彼は、そこまで見抜いているのだろうか。胸を撃ち抜くようなこの痛みは、世界に対する罪悪感。世界から彼を奪い取る罪の意識。
しかしこの手は離せない。離すつもりもない。家康は同時に、飽くなき欲求を抱えているからだ。矛盾などと分かっている。だがその矛盾に目を向けてしまえば、足元が崩れてしまうから、だから今日も見ぬふりをして、上空に揺蕩う幸せだけを家康は望み続ける。
100927 天草