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末期の水

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板張りの床は冬の空気を伝えて心底冷たい。冷たい空気がのどを刺すようで大谷は目を閉じたまま眉間にしわを寄せた。もっともそれは包帯の下に隠れて誰にも見えないものであった。目を開けると部屋には誰にもいなかった。誰があけたのか戸が開け放してある。なるほど寒いのも道理よと大谷は思ったが、横たえた上半身をたてることもできなかった。
 天井の色がすでに見飽きたものになっているのは伏せってだいぶ経ったからであった。輿に乗ることもできず、三成が飛び出せばもう追いつけぬ。やれ困ったとつぶやく相手も今はいない。
 冷気は床にたまる。盆地の冬はしくしくと寒い。息が白く溶けるのは、まだこの体が温かいのだと知らせて妙に愉快だった。
「刑部」
 庭にはまつゆきそうが生えていた。群らがってところ狭しと咲いている。庭師の手も入っていないので余計に荒れがひどいのが大谷はさほど嫌ではなかった。背の高い木も低い草もてんでばらばらに咲き生えていて、まるでここが世から隔てられた暗のように思える。草に霜がおりて、ところどころ枯れているのすら、どこか大谷を愉快にさせる。
「刑部」
 再び呼ばれて視線をやるとそれを察したように戸の向こうから三成がゆらりと現れた。昔から存在感の薄い男だったが今やそれに拍車がかかっている。白い髪が薄曇りの空にとけそうだ。薄いねずみ色の色無地を着ているので余計だった。
「ぎょうぶ」
 もう一度呼ばれ、大谷はそろり笑う。
「どうした、三成」
 答えれば三成は口から白い息を吐いた。自分の口から出るのと同じものなのに大谷は驚く。この男も生きているのだと不思議になってたまらない。
「もう昼時だ。飯を食え」
 起こしに来たのだと言われて大谷は目を細める。冬の日差しは薄く力ない。とはいえ霜の降りているこの時刻がもう昼前ということはないだろう。庭と同じくてんでばらばらなのだ。三成の言うことは現と夢とかあい入り交じって大谷には判別しかねる。
「そうかそうか、昼なら食わねばな」
 食う気力もあるまいにと自分をあざける。うすい重湯か、飲むならばほのぬるい湯冷ましばかりだ。口から出るのは息か血か、あるいは嘘しかあるまいに。食べるものより口から吐くものの方が多いのを大谷は笑う。ヒヒヒと力なくかすれた声で言うと、三成はどうかしたかと尋ねてきた。
「いや、ぬしから飯のことを言われると思わずな。我が咎めたてていたのが嘘のようよ」
 三成の夢も現もことさらに暴こうとは大谷は思わない。それはこの男のすべてが一度なくなった日から大谷が考えていたことでもあった。三成は無表情と変わりない仏頂面を少しゆるめて、なら膳をもってこさせよう、と三成は戸のそばから姿を消した。
 足音の聞こえない静かな歩みだ。大谷は目をつぶる。しくしくとした寒さは臓腑を這い回っている。

 虫のたかる夢はよく見る夢の一つだ。指先がぼろりと崩れて中から骨の代わりに白く小さな蛆が身をよじって這い出る。やがて体の上で黒々とした羽虫になる。羽虫は卵を産み、また体の中で孵る。皮膚の下のあらゆる場所でそれが行われ、うすい皮の一枚下で何かが這いずり回り、全身を長い爪でばりばりと引きむしりたい衝動にかられる。だが体は動きもしない。ただそれにじっと耐えている。やがて体がすべて崩れて土になる。それでもまだ生痒さが残っている。体がないので痒さは消えもしない。羽虫が一匹蝶になる。全身真っ黒い蝶だ。やがてかがり火に惹かれ蛆のように燃えて死ぬ。
 足音がすると目が覚めたのはそんな夢を見た後だった。枕元には膳がおいてあったがもう冷め切っている。膳は一つだ。減った様子もない。戸は閉まっていて部屋は薄暗い。三成は板張りの床に体を投げ出すように寝ていた。膳の前でただ目が覚めるのを待っていたのだろうかと大谷は思う。
 起こせばよいものを、それができなかったのだろう。
「雨か」
 足音だと思ってたものが雨音だと気づいたのは水のにおいがするからだった。だとすれば戸を閉じたのは三成なのだろう。三成は雨を嫌う。降ってくると戸を閉めることが多い。
「雨は嫌なものよな、体がよう痛む」
「刑部」
「ぬしも寝るならちゃんと寝よ、ここでは体が軋むばかりであろ」
 薄く開いた目の金色を大谷はみないことにしたかった。現か夢かを判断しようと揺れている。この世は凶事ばかりよ、と誰ともなしに思う。
「おまえのそばはよく眠れる」
 三成の言葉に大谷はヒヒヒと笑う。
「あいわかった、そうであったな」
 それはあの夏の前からそうだった。昔から三成は大谷のそばでまどろむことが多かった。そのたびに、ちゃんと寝ろというとこちらの方が寝付きが良いという。それでも眠りが浅いのか問いかければ三成は答えを返す。
 さめた膳のことを三成はもう忘れたようだった。上半身を起こして伏せっている大谷の枕元へとよった。常日頃から行儀の良い三成にしては怠惰な仕草であった。
「刑部、おまえは」
 三成は大谷の額に手をやる。包帯越しの三成の手があまりにも冷たいので大谷はぎくりとしたが、自身の熱が高いのか、あるいはこの部屋で三成が冷え切ったのは定かではなかった。火鉢は入っているものの、忍び入ってくる寒さはどうも払いきれない。
 三成はふいと窓のほうをみた。
「雨は嫌いだ」
「そうよなァ」
 三成の言葉はつながらないものがおおい。とは言っても、何を言っているかはたいてい理解できるのだから大して困らない。第五天に比べればよりましだとでも言おうか。大谷も三成の消えた言葉の行く先は気に止めない。
「死ぬのか」
 唐突だった。三成の言葉は唐突だったので、大谷はのど元をつかれたような気がした。それから一拍遅れてなんとか笑い声だけでも出そうとしたが、折り悪くせきがのどを焼いて、三成の言葉を不吉に響かせる結果に終わった。
「三成よ、人は誰でもしぬるぞ、我も、ぬしも」
 太閤も家康もなァとは言わなかった。三成は不意に大谷のほうをむく。横顔しか見えなかった三成の顔は大谷の想像よりもずっと無色のものであった。
「おまえは死ぬのか」
 大谷も伏せって長い。起き上がれる時はほとんどなくなってきた。もう三成が飛び出てても輿にのって連れ戻してにはいけぬ。数珠は部屋の端にころがっている。本を読まなくなってだいぶ経つ。
「ぎょうぶ」
 答えろと三成は茫漠とした声で迫る。やれ困ったと、笑わずに大谷は思う。三成はまだ自分のことを刑部と呼ぶのだ。
 熱の続く頭で大谷は考える。自分が抜け殻のようなこの男に目的もなく生きろと仕向けたのではなかったか。であるならば、この先この男がなんの希望も見いだせないのならば自分が連れて行くことがその責務ではなかろうか。
 せきが喉からこぼれる。
「三成」
 腕をあげて三成の青白い頬に触れるとそこは氷のように冷たかった。自分よりよほど死体めいているこの男を残して逝くのは酷なのだろうか。
「我は死なぬ。それよりぬしが心配よ」
 瞬きの間に彼岸へ逝きそうだ、と笑うと三成は憮然とした顔をする。笑いながら大谷はぼんやりと思う。
 ぬしの末期の水は、我が取ろう。
作品名:末期の水 作家名:とざわいと