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爪を切り損ねた。

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 爪を切り損ねた。紙袋被ったまま無茶するわね、彼女が笑いながら隣室へ出ていく。足音が止んでも僕は目隠しを止めないし、フローリングの上で、右ひざをたてて、爪も切る。クラフト紙で区切られた世界は息苦しいが、干からびそうに呼吸は出来る。出来るだけだ。ぱちん、たぶん、血は赤いだろう。
 クラフト紙からは微かにコーヒーの匂いが、僅かにする。五日前に買った二人分のカフェ・ラテ、彼女は一人で飲み干してしまった。僕は紙袋が欲しいだけだから構わない。紙袋にはフォークで開けた左右四つずつの穴がある。小さすぎて何も見えないそれを頼りに、僕は日曜日の朝早く、コーヒーショップへ行く。
 店には優秀な店員がいて、紙袋のままでも常人と変わらず応対してくれる。いつものですか、びっくりマークを付けたいぐらい活発な声に目を覚まされる。その時、右目の、右から二つ目の穴から、ドーナツが見えた。ドーナツは一個につき一つの穴を持っているから、紙袋男よりも行儀が良い。あれ二つ、追加は珍しいことだった。カフェ・ラテは二人分彼女が飲んだけれど、穴は公平に一個ずつにした。水分は彼女の方が欲しているが、糖分は平等なのだ。
 いつもは苦いばかりの匂いが、この紙袋は、コーヒーと、甘いグラニュー糖の匂いがする。気に入っているけれど、紙は一週間が寿命で、また日曜日にはコーヒーショップへ行かねばならない。目隠ししたまま外へ出かける危険をみなさんご存じだろうか? フォークで開けた左右四つ、計八つの穴は小さくて、出かける度に肘と膝をぶつけてしまう。もしかしたら痣になっているかもしれない。見えないからよく分からない。痣って水が必要だろうか?
 切り損ねたのは足の小指だった。触ると指が濡れたので、たぶん、血が出ている。たぶんばかりの説明で申し訳ないが、僕だって見えないので仕方あるまい。ずきん、ずきん、傷口が脈打っている。あんまり血が出ると干からびてしまう。ただでさえ紙袋男は、汗ばかりかいて水分不足なのだ。靴が履けないと理由を付けて、いっそ行かないでおこうかな。痛いのは本当だ。でも、行かないと被る紙袋が無くなってしまう。彼女にまた笑われてしまう。
 かたん、ドアの音がして、彼女が僕の前に立った。あら、本当に痛そうね、紙袋ごしに、声はくぐもって聞こえる。もっと高く明白な、たとえばあの店員のように、びっくりマークが付くぐらいに整った言葉を出す喉をじゃなかったっけ。彼女は僕より水が足りないから、声も擦れてしまうのかも。元の声はどんなだっけ? 彼女の声も分からなくなって、なんで僕は袋を被っているのだっけ? 明示的なのは、八つの穴が行儀悪いということだ。一個には一つの穴が正しいのだ。ドーナツは正しく、八つの穴を持つ紙袋男は間違っている。
 爪からは引っ切り無しに血が出ていくようだ。彼女は動かないから、たぶんまだ僕の前に居るのだろう。手を伸ばしてみようかと思って、足の小指に触れていた右手を挙げた。ばたばたさせると、止めてよ血が付いちゃうわ、くぐもって声が聞こえて、手を握られた。ずきんずきんのリズムが速くなるから、心臓も速くなっているのだろう。小指がどんどん濡れていくし、右手はどんどん汗ばむから、もうすぐ僕は干からびる。
 水が足りないなあ、袋の中で声は反響する。指も顔も水分が抜けてしわが寄っていくようだ。熱も籠って暑いのだ。頭は相当のぼせていた。カフェ・ラテならあるわ、彼女の声は赤色だ。紙袋男はコーヒーを飲まないんだ、繊細だからね。幼稚な言い訳をすると、彼女は指を離してしまった。もう少し触って居たかった、彼女の指は冷たいから。
 汗でのぼせて、クラフト紙が湿ってしまう。軽い眩暈を覚える。彼女が急にしゃがむから、高低もあいまいになってしまう。傷なんて舐めて治すのよ、僕は相変わらず彼女の声を忘れているのに、彼女は遠慮なしに僕の右足を持ち上げる。平衡なんてあったもんじゃあない、僕は後ろ向きに両手を突く、お構いなしで、僕の小指がべろりと湿る。舐められた。そして、同じように、べろり、紙袋の顔面を、彼女はキスするみたいな気安さで一舐めする。クラフト紙は弱いのだ。そもそも彼女は与える水なんて無い癖に、躊躇なく僕に水を舐めつける。抵抗なんてする間もなく、八つも無作法にある穴から、どんどん唾液が染みていく。慌てて顔を隠そうとしたら、彼女が切り損ねていない爪を立てた。びり、一息に、ずきん、一つ鼓動が鳴る間に、穴は行儀よく一つになった。
 たぶん、なんて曖昧じゃない。彼女はぼろぼろ泣いていた。だから彼女は干からびるのだ。ああ、そうだ、濁りない感覚に記憶も段々鮮やかになる。彼女が見ないでと言ったから、僕は紙袋男になったのだ。でも彼女が袋を破ったから、たぶん見てもいいのだろう、か? ああ、なんだ、袋なしでも曖昧なままだ。ははは、声をあげて笑いが漏れる。干からびちゃうよ、と僕は言う。あなただって、水を飲まなきゃ、言いながら涙をこぼすから、それでいいやと僕は舐める。
 今からカフェ・ラテ二つ買いに行こう。本当は袋なんてどうだっていい。君が干からびなければ、それで、良い。
作品名:爪を切り損ねた。 作家名:m/枕木