君だけの優しい世界
黒い影に誘われるようにしてNの部屋に足を踏み入れた瞬間、僕は思わず自分の身体を抱き締めていた。
ボールから出しっぱなしにしていたランクルスが、心配そうに僕の顔を覗きこんでくる。
「…ごめんね、大丈夫だよ」
僕は彼の頭をひと撫でして、一度深呼吸してからもう一度、今度はもっとゆっくりと中を見渡した。
窓がない。地下にあったからだろうか。
きらきらした壁紙、空模様の床。
ぐるぐる天井近くを回る飛行機、古ぼけたバスケットボールと一つしかないゴール。
絵に刺さったままのダーツ。ぱっと見滑り台のような遊具は、ボールと同じくらい使いこまれて傷だらけだった。
爪先に何かが当たった気がして、拾い上げるとそれはポケモン用のあめだった。ランクルスが不思議そうに眺めているけれど、だめだよと手で制して遊具の上に置き直す。
(あれがN様の世界)
黒い影の言葉を思い出す。
動き続けるおもちゃの汽車には、つい最近遊んだあとが残っていた。
おもちゃ箱をひっくり返したように賑やかで色鮮やかな、けれどどこか寂しい。
ひとりぼっち。いや、Nと彼のトモダチだけの世界。
(N。君が守りたいのは、こんな世界なの?)
こんなに綺麗なのに、寒気が治まらない。
ここには色がない。汚れを知らない幼い子供のように何色にも染まっていない。
たった一つの無機質な色に、残らず染め抜かれている。
これ以上この部屋にいるのは、怖い。
いつの間にか自分までこの部屋に同化してしまいそうで――
ぶに
頬に柔らかな感触。
水気のないゼリーを押し付けられたようなこの感触は、ランクルスのものだ。
緑色に浮かぶランクルスの口は、への字に曲がっている。ふいに彼が指さした。
透明な腕が向けられた先は僕の腰で、見下ろすと五つのボールがカタカタと震えていた。
揺れてしまった僕を叱るように、励ますように、慰めるように。
僕はそこへそっと手をやった。
「ごめん、ごめんね。そうだね。僕が揺らいじゃいけない。
色んな人に約束したのも、決めたのも僕だ」
ポケモンは人が思う以上に人の心に敏感だ。トレーナーが不安を感じてしまえば、それはすぐさま伝染してしまう。
だから、僕は。
「誰かに言われたんじゃない。僕自身が決めたんだ。
僕が君たちと一緒にいたいって、君たちと過ごすこの世界を守りたいって」
どんなになっても諦めない。覚悟くらい、してきただろう。
「僕は僕自身のために、僕の世界を守りにここまで来たんだ。
だから謝らないよ、N」
断りも入れずに土足で上がり込んでしまったことについては、謝るけど。
「行こう。Nが待ってる」
ランクルスが力強く頷いた。ボールの中の皆も同じような動作をしたのが伝わってくる。
僕はきっと、少なくない人やポケモンに望まれないことをしに行くのだろう。
でも、一人じゃないから。いろんな人たちや、何より僕のポケモンたちが、僕が進むことを望んでる。
(僕は、僕の世界を守るよ)
それが君の夢を壊すことになるんだとしても。