過去の君、今のぼく
(しま、った――――。)
と思った時には既に遅く、一瞬早く開いた記憶の扉は容易には閉じてくれない。御剣は自分の手からティーカップが滑り落ちるのを感じた。視界が過去の記憶によって阻まれる。
(く、そ―――。)
陶器が床に落ちて砕ける音を聞きながら御剣は意識を手放す。
――――その一歩手前。有意識と無意識の間のその一瞬。
――――何故かとても懐かしいキミの声が、聴こえた。
ひんやりとした床の感触で御剣は自分が床の上に倒れているのを自覚した。
(また、か。)
さっきのは随分と大きな揺れだったから意識を失うのも無理はない、な。
目を開くと床に赤い液体が落ちているのが目に映った。
(なん、だ‥‥これは?)
そろそろと指を伸ばそうとしたところで指先に鋭い痛みが走る。
「痛ッ‥‥。」
目の上にかざしてみるとどうやら怪我しているらしい。砕けたティーカップで指を切ってしまったのだろう。零れた紅茶の温度から推定して気絶していた時間は10分といったところ、だろうか。
「‥‥‥‥。」
――――ふと、泣きたくなった。誰もいないのにそれを押し隠そうとして無理に笑ってみる。
「――――無様、だな。」
御剣は体を起こしながら呟いた。
キミが悪夢の底から救いだしてくれたのにも関わらず、尚も過去の柵に囚われている私を見たら君はどう思うのだろう。
‥‥失望、するだろうな。いや、望みすら抱いていなかったら過去の自分も捨てられない弱い人間だと鼻で笑うかもしれない。‥‥それで、いいから。寧ろそれで構わないから――――。
一番避けたい相手のはずなのに、何故か無性に成歩堂に抱きつきたかった。
机の上に置いたままの携帯電話が鳴る。床にへたりこんだまま御剣は腕だけを伸ばして電話にでる。
――――相手は‥‥分かっていた。
「御剣?」
何も言わないうちから心配そうな声が聞こえる。その懐かしい声を聞いた瞬間―――。
「あ――――。」
声にならない想いが涙となって頬を伝い落ちた。
(今すぐ来てほしい。)
(絶対に来ないでくれ。)
そんなムジュンした二つの感情を抱きながら御剣は携帯電話を握りしめた。今、たった一つの外界との繋がりだけは手放さないように。
「行くから。」
半ば予想していた成歩堂の台詞が聞こえる。その時御剣の口から洩れたのはある意味本音の方だった。
「キミは‥‥。」
自分でも声が震えるのが分かる。
「キミは‥‥私にこれ以上キミに無様な姿を晒せ、と言うのか‥‥?」
いつも完璧でいたかった。弱いところなんて見せたくもなかった。あの幼き日のようにいつまでもヒーローでいたかった。‥‥他でもない、そう、キミの。
「キミは‥‥私のことが好きなんだろう?ならば何故、わざわざ私の醜い姿を見に来るんだ?」
でも、もう晒してしまった。弱く、汚く、愚かで、無様な私を。
「分かってないな、御剣は。‥‥好きだから行くんだろ?キミを助けに、さ。地震のせいでキミちょっとコンランしてるんじゃないの?」
成歩堂は呆れたように小さく笑う。後ろで小さく車の発車音がした。‥‥成歩堂のことだ。もうタクシーに乗ってこちらに向かっているのだろう。
「コンランなど‥‥‥ッ!」
――――分かっている。いくら止めてもキミは来てしまう。あの時だってそうだった。
(メイワク、だったか?)
―――メイワクも何も最初から私を弁護すると決めてきたくせ、に。
この辺りが糸鋸刑事と成歩堂の違いだ。
糸鋸刑事は私のことを思ってくれている。‥‥それは、分かっている。だが、助けようとしても御剣の嫌がることは絶対にしない、そういうオトコだ。地震があっても電話をかけてくるな、といえばかけてこない。それは基本的には有難いことなのだが、時に物足りなく思うこともある。
一方成歩堂は正反対だ。御剣がどんなにイヤだということもそれが御剣の為になると思っていることならば(あるいはそれが自分の欲望を満たすことならば)実行に移すことに躊躇しない。そして本人はそれを優しさだと信じている。時にその優しさを嫌がり、鬱陶しく思うこともあるだろう。だが、現在御剣が糸鋸ではなく成歩堂と付き合っている、ということは―――。
(私には少々強引なオトコの方がいいということ、か。)
そしてその強引なキミは続ける。
「キミは地震が苦手なのを弱いことだと思ってる。‥‥そうだろ?」
「‥‥‥‥。」
成歩堂は御剣の返事も聞かずに続けた。
「でもね、人間誰でも弱いところはある。キミの本当に弱いところは‥‥‥。」
「聞きたく、ない。」
小さく呟いてみる。半分は本音かもしれない。でも半分は‥‥‥‥。
「嘘つき。」
成歩堂はやはり笑いながら返した。
――――それくらい自分でも分かっている。本当に聞きたくないのならば、こんな電話今すぐ切ってしまえばいいのに。
「キミの本当に弱いところは自分の弱いところを弱いと認めてあげられないところ。どうせ、また必死で否定しようとしてるんだろ?過去の自分を。」
――――どうせ見抜かれてしまうのならば最初から隠さなければいいのに。
それに‥‥キミだって‥‥。
「キミだって私の無様な姿など受け入れてくれないだろうに。」
――――少し試してみる。答えなんて分かりきっているのに。
「受け入れるよ。」
拍子抜けするほどあっさりすぎる成歩堂の答えはやはり予想通り。
「寧ろ進んで受け入れるよ。ちょっとカッコ悪いところも可愛いところも地震が苦手なところも全部含めてぼくの大好きな御剣怜侍自身だもんね。‥‥キミは小学生の頃の弁護士を目指してた自分の方が、今検事をしてるキミより強かったと思ってるみたいだけど、そんなことない。‥‥少なくともぼくの目には一生懸命検事をやってる今のキミの方がよっぽどカッコ良くて魅力的にみえるよ?」
成歩堂の率直な言葉は乾いた御剣の心にスッと染み込んでいく。
「だから、キミは自分の弱いところを認めてあげてもっと他の人に頼ればいいんだと思うよ。ぼくがキミにそうしているように、ね。」
いつものようにキミの言っていることは不可解でやはり訳は分からなかった。
「私はキミに頼られた覚えはないのだが‥‥。」
「いいんだよ、それでも。さて‥‥、ぼくはキミのところに行かない方が良いのかな?キミがイヤだっていうなら、いかないけど?」
成歩堂の多少面白がるような声が響く。―――最初から分かっていた。成歩堂がここに来てしまうことはある種必然。一つは成歩堂が無理矢理来てしまうだろうから。‥‥もう一つは私が本気で成歩堂が来るのを止めようとするわけがないからだ。
成歩堂が囁く。
「どうせ、一人で震えてるんだろ?‥‥行って抱いてやるよ。」
いつもこうやって崩されてしまう。何が崩されるのかはよく分からないが、そうやって崩されたものの中に埋もれてしまうのだ。
――――それも悪くはない、と思ってしまう所が重症だが。
だから御剣はできるだけ尊大に言ってみせた。
「何を寝ぼけたことを言っているんだ?早く来たまえッ!」
「了解。」
成歩堂が少し苦笑まじりに答えると同時に、玄関のインターホンが鳴った。御剣は指先の傷をペロリと舐めた。
――――やはり、私には少々強引なタイプの方が合うらしい。