欲しかったものがそこにあった
牙を向く。
爪を尖らせる。
握られた拳は滴る血に塗れ汚れていく。
違う、違うんだ。
俺は本当は誰も傷つけたくはないんだ。
壊したくなんて、ないんだ。
追い立てる人間の声が耳に届く。
舌打ちが口の中で響いた。
傷だらけの癖して痛まない身体が煩わしくて、そのまま森を突き進んだ。
(俺はただ生きているだけなのに)
それなのに、人は見た目だけで判断し迫害する。
異形のものだからというだけで、その存在を消そうとする。
何もしてないのに。
傷つけてないのに。
だから理不尽な迫害に牙をむいたら、人間は意図も簡単に壊れてしまった。
べとりとした血が気持ち悪くて、何より畏怖に染まった人間の目が恐ろしくて逃げだした。
森の奥深く、山の中へ。
人は追い立てる。
こちらの戦意が無くとも、その存在を消すまで。
ああ、もう全てを破壊してしまおうか。
どうせ傷つけるだけの手だ。
とことん壊して、壊して、そうして壊れてやるのもいいのかもしれないと。
血に染まる手を握りしめた時、そいつは現れた。
「東がやけに騒がしいと思ったら、成程貴方でしたか」
涼やかな透き通った声が木々に囲まれた世界に響き渡る。
気が付けば、追い立てる人の声も、ざわめく風も、虫の音も動物たちの鳴き声も聞こえなくなっていた。
全ては幼子の前に現れた存在によって。
「初めまして、狗神の子」
蒼い蒼い眸が幼子を見据える。
そこには人間達が見せたような畏怖も嫌悪も無くて、あるのは幼子が見たことの無い色だけだった。
「僕はこれより少し先にある山に住まう竜、名は帝人といいます」
貴方は、と聞かれ、幼子は呆けた頭で首を振る。
名など無かった。
生まれた時も独りで。
今までもずっと独りだったから。
呼んでくれる者などいなかったから。
幼子の応えに、目の前の竜は「そうですか」とゆったりと瞼を伏せた。
不意に白い指先が伸びる。
何をと認識する前に、身体が動いてしまった。
がりっ、
「・・・あ、・・・・」
白い手に伝う紅い滴。
僅かに瞠られた蒼の眸。
傷つけた。
傷つけてしまった。
また、俺は、
(違う)
(本当は)
(壊したくなんて、)
ふわり、と温もりが身体を包み込む。
その正体が何なのか、すぐには理解できなかった。
だって、抱き締められるなんて、そんなの初めてだったんだ。
「ごめんなさい。いきなりで驚いてしまったんですね。大丈夫です、僕は貴方に危害を加えたりしません」
柔らかい声。
暖かな身体。
優しい掌。
それら全てが、じわりじわりと幼子の傷だらけの身体に沁み込み、言い知れぬものを呼び寄せる。
(こわい)
がちがちと歯を鳴らす。
込み上げるのは恐怖か、―――否、これは、
「ずっと独りで怖かったでしょう?もう大丈夫ですよ」
幼子は声を上げて泣いた。
優しく抱き締めてくれた身体に縋りついて、ずっとずっと。
哀しみも痛みも寂しさも苦しみも全て全て吐き出すように。
幼子は泣き続けた。
「貴方の名前を考えなきゃいけませんね」
「え、」
泣き疲れた幼子を抱き上げて、彼は山を上る。
重くないかと聞いたら、慣れてますからと返ってきた。
どうやら自分と似たような者と共に居るらしい。
「これから一緒に生きていくのですから、名前が無いと不便でしょう?」
「・・・・・うん」
「ご自分で考えますか?それとも僕が名づけましょうか?」
幼子は彼の眸と同じ色の着物をぎゅっと握る。
追い立てる人の声はもう聞こえない。
「・・・あんたに、付けてもらいたい」
初めての名前。
自分がここに居ると云う証。
それをこの美しき竜に与えてほしい。
それが幼子の中で生まれた願いだった。
「ふふ、それは責任重大ですね」
そっと背中を撫ぜる感触が気持ちよく、幼子は瞬きを繰り返す。
眠いですか?と聞かれ、意味も無く首を横に振る。
ぐずっているような態度が気恥しく、目の前の衣に顔を埋めた。
「お眠りなさい。もう怖いものなどないのですから」
一定のリズムで柔らかく叩く掌に、眠気はすぐにやってきて、幼子は生まれて初めて素直にその心地好さに身を浸らせる。
次に瞼を開ける時、またあの蒼い眸が見れるのだと安堵しながら。
水の流れる音で目を覚ます。
木漏れ日がきらきらと水面を照らすその場所で、美しき竜神は慈しむように微笑んだ。
「おはようございます。―――静雄さん」
幼子は、―――静雄と呼ばれた子は大きく目を瞠り、そしてくしゃりと顔を歪ませたかと思うと、竜の胸に飛び込んだ。
(欲しかったものがそこにあった)
作品名:欲しかったものがそこにあった 作家名:いの