息がつまるほど
あの情熱の激しさに、息がつまる。
あの小さく、黄色いボールを追い駆けた日々はすでに遠く、それからの自分はテニスというものから強いて眼を逸らしながら生きてきた。己の中にあるすべてを傾けてきた世界をみずから断ち切ることは、この世の光が奪われてしまうことに等しく、大げさに云えば魂の核となるものが根こそぎ取り落としてしまったかのような虚脱さがあった。
容赦なく全力で向き合っていたから、逆にいつでも止められると思っていた。
それが甘えだったと知ったのは、高校を卒業してすぐのこと。周囲は、自分が進学しても当然続けると思っていたから、正式引退して家督を継ぐための留学を希望したら大騒ぎになった。
周囲は想像すらしなかった事態だったらしく、それは面白いくらいに取り乱してくれていたが、自分にとってこれは最初から決められていた事項であったので、割合冷めた気持ちでいたように思う。
泣き出した後輩や怒鳴り散らした仲間を宥めるのに奔走した毎日。そのことに些か首を傾げもしたけれど、それだけ彼らが惜しんでくれていることも分かっていたから大人しく受けていた。
嵐のような騒音も、今だけだと。
そう思って、いたのだけれど――――。
夢の中で、黄色の影に魘されると必ず黒い瞳を思い浮かべた。大きくて、それでいて瞳孔も虹彩も深い漆黒の瞳。もともと焦点が甘いのか、それもと視線が緩いのか気を抜くと何処を見ているのか分からなくなって酷く落ち着かない気持ちにさせられる。そんな曖昧さが生来のものなのかは知らないが、眼だけではなく彼自身の雰囲気すらも掴みどころのない空気を纏わせていた。
そんな、常ならば茫洋と見るだけのあの眼が、その時ばかりは違うものに変わっていた。普段はうざいほど饒舌に構ってくるくせに、形の良い唇をきつく引き締め、険しくこちらを睨みつける。
雄弁な眼差しは痛いくらいに語りかけてきたけれど、その想いに応えることはできなかった。
他の誰とも違う場所で自分を見つめてきた彼は、最後まで言葉にすることはなくて。そのままあっけないほど絆は断ち切られた。
(いや、切ったのは俺の方か……)
『友達』というには程遠く。
『チームメイト』というには近すぎる。
結局自分にとって彼がどういう存在だったかなんてわからないままだ。もちろん、彼にとっての自分の存在も。
それはそれで、知らないままでもいいと思っている。その気持ちは強がりでもなんでもなく、ただ、他人の中の自分の価値なんてさほど興味がないだけの話で。
それでも、たまにここには居ない彼に問うてみたくなる時がある。
「あの頃の俺達って、何だったんだろうな」
声に出すとこんなに陳腐な言葉で、例えこの場に彼がいて尋ねられたとしてもきっと答えなんて出ないに違いない。
付き合っていたという認識はお互い欠片もなくて、ましてや『恋人』なんて鼻で嗤って捨ててしまう。
けれど、「さよなら」と告げるだけの存在ではあった。
隣り合って歩いていた、自分よりも少しだけ高かった肩の線を思い出す。いつだってあの尖った肩に噛み付いて、舐めて、くちづけたひと時の熱のあつさに眩暈を感じていた。そんな暗い熾火のような感情に胸がつまったこと、今でも忘れてない。
暴かれることが嫌で黙っていたことが罪ならば、そんな激しさを植えつけた人間に咎はないのか。
(聞きたくないことは、云い出す前に耳を塞げば良い)
相手の口を塞ぐよりもずっと簡単だ。
今頃、恨み言を云われているのかもしれないけれど。
それでもあの時は聞きたくなかった言葉を、今にも溢しそうだったから。彼からだけは、聞きたくなかったから。
けれど。
(それを今更惜しいと思う自分は、どうかしている)
心底バカだと、呆れて嗤うこともできない。
それでも今どうしても聞きたいと思ってしまうから。もし会うことがあったら、今度こそ逃げずに伝えよう。
あの、息がつまるほどの真っ直ぐな漆黒を捕まえて。
ずるい男だと、笑われても。
「きっと、恋だった」