This is the day,I`m on the way
コンパートメントのガラス戸を引くと、グーテンタークと高いの低いの2種類で、
しかしタイミングは寸分狂わずピッタリな挨拶が返ってきた。
「チケットよろしいですか?」
1日に何百回と繰り返す台詞への対応は人それぞれで、黙り込んだまま目も
合わせずに差し出す人もいれば、にこやかに天気だの煙草の値段だのと他愛
もない話を振ってくる人もいる。
そのコンパートメントの二人連れは少なくとも片割れはどうやら後者のようだった。
「あっちはもう寒いだろ?」
チケットを見せる前からそう声を掛けてきた青年はちょっと余所では見られないよ
うなパープルよりも更に赤を強めた珍しい色の瞳をしていた。
「ええもうすっかり冬支度で」
「老体には厳しい季節だな!」
「ギルベルト」
からっと失礼な物言いをする連れをたしなめるこちらは金髪碧眼の役者を思わせ
る美丈夫で、随分面白い取り合わせに見えた。
「ベルリンももう寒くてよー、今朝だって」
「それは貴方が薄着過ぎるからだ。ベッドでだって毛布をきっちり掛けていれば
まだそこまで寒くはない」
「はいはいわーったよ、俺が悪い、全面的に。ったく、口煩いったらないぜ」
つんとそっぽを向いてグチグチ言うが連れ合いは心得ているのかクスクス笑う
だけだ。
「お二人はベルリンの方なんですね」
「いやベルリンはこいつだけ」
赤眼の青年は窓際に頬杖をついたままで、ちょいと顎の先で示すと示された方は
ちょっと嫌な、というより不本意そうな顔になった。それすらも興の矛先にして、
にやにやチェシャ猫みたいな笑みで青年は「俺はローテンブルクだ、今はな」と
いった。
それならこちらより余程暖かいでしょうとか、今は俺がベルリンに遊びにきてて、
ちょっと小旅行だとか、他愛もない会話を二言三言交わす。
「こいつが忙しい奴でさ、なかなか休みがとれないから旅行なんて久しぶりなんだ」
「若い頃は忙しいのも財産ですよ」
「つってもさ、せっかくの記念日だから旅行をしようって言い出したのはコイツだぜ?
なのに、結局当日に出発なんて慌ただしくなっちまってさ」
「記念日ですか、誕生日かなにかで?」
「まぁそんなとこだ」
青年は、にししとくすぐったそうに笑うので、おめでとうございますと言うこちらも
ほっこりと笑顔になった。
決まりが悪くなったのか金髪の青年がこほんと咳払い付きで話に加わりだす。
「帰りは俺もローテンブルクに寄ろう。それで冬用の服も毛布もすっかり出して
しまわなければ」
「寄るって場所じゃねぇだろ。思いっきり通りすぎてんじゃねぇか」
「問題ない。元々そのつもりで日程は組んである」
「ならその分長くあっちにいようぜ」
「ダメだ。貴方は放っとくといつまでもブランケット一枚で寝てしまうじゃないか」
「ちぇ、お前は俺の母親かっつーの」
そこまでが限界で堪えきれずにとうとう吹き出してしまった。くすくすくすと客の
コンパートメントで遠慮なく笑い出した車掌に仲の良い二人連れは一瞬ポカン
と呆気にとられたようだったが、すぐに同じようにげらげら笑い出した。
笑いなれている人間の、気持ちの良い笑い方だった。
「あんたはベルリンに住んでんのか?」
ひとしきり笑った後、赤眼の青年に見上げられながら聞かれ、はいと答え、でも
と続ける。
「でも、私の本当の家はこの列車の向かう先なんですよ」
窓の外を見ても、まだ赤や黒の屋根が居並ぶベルリン郊外で、北の澄んだ厳しさ
と重たい影を背負う切なく美しいあの街には遠い。
「ケーニヒスベルク、私はあの街の生まれなんです」
それでもずっとずっと一日だって忘れたことはなかった。蒼く冴え渡るプレーゲル川
に映る数百年変わらない橋と赤いドーナ塔に見守られた街を。瓦礫に躓き砲弾を
避けて鼠のように隠れながら這いずった街を。
きっとこんな若い人にはそれがどれ程の意味を持つのか分かるまいとは思いつつ、
何故か素直に口にしていた。
「戦争は何とか切り抜けましたがその後の大追放で捨ててこざるを得なかった。
今となってはあそこに住むのは簡単じゃない。それでもどうしたって私はあの
街が好きなんですよ」
だから未練がましくこんな仕事をしてるわけです、とちょいと制帽のつばを押し上げた。
「ずっと望んだこの路線を担当できたのはほんの数年前の事で、随分と時間が掛かっ
てしまいましたがね」
ふふと笑ってみせたのだが、2人は何も答えず金髪の青年は私ではなく連れの青年に
その視線を注いでいた。辛気くさい話をしてしまった、これだから年寄りはと思われてい
るだろうと後悔し始めた頃、じっと表情を消していた赤眼の青年がぽそっといった。
「あそこを、まだケーニヒスベルクと呼んでくれるんだな」
妙な言い回しだと思った。けれどさっきとは随分違う深い声音に、もちろんと頷く。
何より、青年が口にしたその街の名前は、今までに聞いた誰の発音よりも
美しく聞こえた。
「ええもちろん。ケーニヒスベルク以外の名前なんてありはしませんよあの街には。
………わたしの大切な故郷です」
断言すると青年は窓に顔を向けて、しかもちょっと俯けてしまったものだからどんな表情
をしていたのかは分からなかった。でも、ダンケと小さく呟かれたのが確かに聞こえた。
頃合いと思ったのか金髪の青年がチケットでしたね、と二人分の乗車券を差し出す。
友人同士なら各自で持つのが普通だし、やはり兄弟だろうと当たりをつけたがさてでは
どちらが兄でどちらが弟かと言えば実に答えづらい二人だった。体格や落ち着きは金髪
の青年がどう見ても勝っている気がするが経験値というなら赤眼の彼が遥かに高そうに
見えた。つまるところ余裕の有無だ。
そんなことを考えながら再度乗車券を青年に返してグーテライゼと言えば、二人は笑顔で
手を振った。
幸福そうな旅人はいつだって最良のお客様だ。
<This is the day, I`m on the way>