月見酒
縁側に腰掛けた三成は、一人杯を傾けながら月を見ていた。朱塗りの杯で優雅に波打つ水面から顔を上げると、目の前には閑静な美しく整えられた庭園。そしてそのすべてを見守るように静かに輝く満月。
随分前から老齢の庭師が一人で世話をしており、いつも同じ順序で一本一本木を見て回っては枝を切り揃え、砂利を熊手で流し、三成の姿を見つけると深々と頭を下げる。未だに彼の名を知らないが、老人の背中と額に汗を光らせた笑顔はまるで現実のように思い出された。
この美しい景色を眺めていると、不思議と心が凪いだ。少し離れた一角の大部屋では、襖を隔てて大宴会が織り成されていた。襖越しに、楽しそうに談笑する声がいくつも漏れている。まさに飲めや歌えのドンチャン騒ぎとはこのことかと思わせる盛り上がりようで、三成は開始10分と経たぬうちに脱け出したのだった。
少なくとも、そういった華やかで喧しい場よりはこの縁側のような質素で静かな場の方が好きだ。空を、月を、花を、緑を美しいと思う心など自分にはないと思っていたのだが、おそらく今の自分の気持ちは、人々が自然を愛でる感情と概ね同じものなのだろうと想像した。
「三成」
そんな美しい景色も一人の男によってぐにゃりと歪む。あからさまに眉間に皺を寄せた三成は、男に一瞥もくれず不快感を露わに無言で杯を飲み干した。
「座るぞ」
三成の返答などはなから期待していなかったらしく、声の主は隣にどっかりと腰を下ろした。やはり三成は男を見ようとせず、空になった杯に酒を注いだ。
「何の用だ」
「特に用はないな。ただ、ワシもああいうのはあまり得意じゃないからなあ。少しばかり疲れた。はは、皆元気なことだ」
その男――家康も三成と同じく宴会の席にいた。
この男は何かと自分に構いたがる気がある。鬱陶しい、近づくなと怒鳴り散らしたこともあったが、家康はふにゃりと人の好い笑みを浮かべ、腹をすかせた子猫のようでほっとけないのだ、とだけ言った。それが余計に自分の逆鱗に触れる元となったわけだが、それからも彼の構いたがりは変わらなかった。
人が好きな家康のことだ。本当は人に囲まれて談笑するのは嫌いなわけがないし、その姿は腹が立つほど想像に難くない。疲れたなどとどの口が、と噛みついてやりたい気にもなったが、言葉を交わすことすら煩わしくて、三成は一口酒を含んだ。
「快勝だったな」
家康が今日の戦のことを言っているとすぐにわかったが、三成は別段喜ぶこともなく、ただ当たり前のように抑揚のない声で述べた。
「当然だ。秀吉様の軍は戦国最強。負けるはずがない」
「ああ、そうだ。そうだな」
家康が楽しそうに笑う。三成はというと笑い声さえ気に障るとでも言いたげなしかめっ面だったが、やはり家康にとってはさしたる問題ではないようだ。
「そうだ三成、祝杯を交わそう」
「いらん」
「まあそう言うな。ほら、ちゃんとワシの杯も拝借してきたんだ」
そう言うと微塵の遠慮も見せず、家康は徳利を取って傾けた。
あつかましい男だ。三成は眉間の皺を深くし、とくとくと流れ出る酒を睨みつける。
「ほら、三成」
家康が手に持った杯を三成に向かって差し出す。三成は家康と杯とに視線だけを交互に遣り、同じように杯を掲げた。かつ、と杯の口が軽く擦れ、揺れた水面が月光にきらりと輝いた。
家康はすぐに杯に口をつけた。反らした喉がごくりと上下に動くのを見届け、三成も杯に口をつける。
「格別美味い酒だな」
「……貴様が先まで飲んでいた酒と変わらん」
宴会の席から目の前にあった徳利を拝借してきただけなのだから、他の酒と違うということも考え難い。ばっさりと斬り捨てると、家康は困ったように笑った。
「それはそうだが……まあ、いいさ」
「何だ、言いたいことがあるならはっきりと言え」
「ああ、すまん、何でもないんだ」
「いちいち癪に障る男だ」
家康が謝りながら三成の杯に酒を注ぎ足すと、鼻を鳴らし酒を一息で飲み干した。
しばらく互いに言葉も交わさず、ちびちびと酒を飲んでいた。
思うは、豊臣の未来、唯一無二の主君・秀吉のこと、それから最後に――隣に座した男のことだった。
「きれいだ」
凛とした、それでいて深く慈しむような声にはっと現実に引き戻される。てっきり月を見ているものと思い、声の方に目を向けると、間近に家康の顔があった。驚いて身を引こうとするも、僅差で肩を掴まれ、そのまま床に押し倒される。
「貴様、何を……!」
「……きれいだ、三成」
低く、愛おしむような響きで名を呼ばれたかと思うと分厚い手のひらがさらりと髪を撫で梳き、殊更顔を近づけられる。三成は息を止めた。何故か体が動かない。それどころか頭まで働かない気がする。どことなく家康の顔も赤い。熱っぽい瞳には確かに情欲が滲んでいた。
「……っ貴様、酔っているのか?」
「酒に呑まれるようなことはないぞ、お前じゃあるまいし」
確かに今回ばかりは言い返す術もない。あまり強い方ではないくせに結構な量を飲んでしまったし、酔っている自覚はある。忌々しげにきつく睨みつけるが、家康はただ暢気に声を上げて笑い、三成の薄い唇を食んだ。人の体温と柔らかい感触に包まれ、頭のてっぺんから足の先までが硬直する。
「本当に、きれいだ」
唇を解放されたかと思うと、また同じ台詞をうっとりと囁く。
「なあ、三成。熱いか?」
熱い。体の中心から火照っている。先ほど酒を一気に呷ったせいか。冷ましたい。熱い。
どうすればいい?
判断を急かすように、家康のかさついた手のひらが肌蹴た胸元を撫でる。びくりと肩が跳ねた反動で、頭の中の頼りなく細い糸がぷっつりと切れた気がした。
三成は真一文字に結んでいた唇を薄く開き、ゆっくりと息を吐き出した。喉を通る自らの吐息すら、焼けるように熱かった。
「貴様のせいだ……家康。どうにかしろ」
家康の襟元を掴んで引き寄せると少し驚いたように目を見開いたが、すぐにすっと目を細め穏やかに微笑んだ。