アニマ -4
俺たちはスーパーからの帰りだった。今日の夕食はペンネ・アラビアータだ。
彼は目の前で煙草に火をつけ、煙を吸い込んで咳き込んで、大して吸いもしないのに携帯灰皿に押しつけた。
「やっぱり僕はチョコレートの方が好きですね。さて、餓鬼道の話に戻りましょう。眼を醒ますと、あたりは荒野でした。乾燥した空気で、たまに強い風が吹きます。ごうごうと耳の奥を叩くような風の音に乗って、うめくような、すすり泣くような声が聞こえました。
僕はなぜかとても重い体を引きずってそちらに向かって歩き出しました。自分の体を見てみると、手も足も酷く細く、腹だけが異常に膨れあがっていました。
突然、水の音が聞こえます。腹も減っていましたが喉が酷く渇いていたので、浅はかな期待を抱いて音に向かって走り出しました。関節に力が入らないので大分苦労しましたが。
正確に言うと、この時点ですでに僕は前世の記憶というものがなんとなく、頭の中に残っているということに気がついていました。あの耐え難い地獄だとか、人間の醜さなどが具体的では無いにしろインプットされていたわけですね。だから僕は視界の向こうに人間が見えたときも安堵を覚えることはありませんでした。
僕と同じようにやせこけた人間。もう骨と皮だけになって、腹だけがやはり丸く膨れています。彼らは泣いていました。先ほど聞いたうめきだとか鳴き声は、彼らのものであったわけです。
彼らの周りには木も川もありましたが、どれも燃えていました。何かを口にしようとすると、ごうごうと音を立ててそれが燃え落ちてゆきます。水だけがかろうじて飲むことを許されているようでした。ただし酷い煮え湯でしたが。彼らは一様に爛れた唇を持っていて、つまりはそういうことでした。
「新入りの方ですか」
かすれた声が僕の耳に届きました。僕はもうほとんど力が抜けて崩れ落ちんばかりだったので、その声はまるで降ってくるかのようでした。僕が面倒くさく顔を上げると、まだ年若い男がいました。彼も周りの衆生達と同じように痩せていますが、悲壮感はさほど感じられませんでした。ええ、と答えると、彼は僕の隣に座りました。
「どう思います」
彼が聞くので、僕は冗談っぽく地獄絵図ですね、と答えました。そうすると彼は笑って、そうですね、と答えました。僕は彼に好感を持ちました。その諦めたように伏せられた眼にかかる睫だとか、不健康に痩せた体躯だとかそんなものは結構どうでもよかったのですが、そのときなぜか急激に彼の躯のイメージが頭を支配しました。
眠ろうにも空腹過ぎて眠れなくて、食べ物を探しに行こうにも空腹で力が出ないといった有様でした。しかし死ぬことができません。僕たちは仏の慈悲という名の下にわずかの食べ物を与えられ、か細い生命をつないでいました。
やるべきことは無く、しかしなにか自分からやるような行動力すら持てずに、ぼんやりと毎日を過ごします。自分以外の誰か、あるいは自分、あるいは少年が、食物に対する欲望の為に狂ってゆくのを見ていました。
なんでも良いから口にしたい、と思うようになったのはしばらく経ってからでした。餓死した人間の肉を見て、ふらふらとその肉に手を伸ばそうとしたところをすり切れそうな二重の理性でこらえます。一つはもちろん自分の理性でしたが、もう一つは少年の理性でした。
日ごとに口を聞かなくなってゆきます。もう燃えさかる川を見続けることしかできなくて、自分が生きていられる時間はそう長くないだろうと思いました。僕はその時には与えられる食べ物を少年に渡していました。
「馬鹿ですね。こんな事をしても、僕はすぐに死ぬのに」
少年は少し寂しそうに言いました。僕は自分の言葉を彼の言葉を混同し始めました。そして眼を閉じると、それはもう色鮮やかな狂気の世界です。見たこともない極彩色が僕を包んでいました。
「どうしました?」
少年が僕を揺り起こします。自分の狂気から抜け出せなかった僕は、彼の目に映るゆがんだ自分を見ました。
眼が赤い、と口に出すと、少年は不思議そうな顔をして首をかしげます。
「あなたの目が赤いことなんて、ずっと前から知っています」
「数字は」
僕は自分の口から思いも掛けないことが出たのにびっくりしました。その時はまだ前世の記憶なんてありませんでしたしね。それで慌てて口を押さえると少年は僕の目をのぞき込みました。
「一です」
「いち」
「そう。それが何を意味するのか、僕にはわかりませんけれども」
僕にだってそんなことはわかりませんでした。けれどもそれが何かを意味するのは知っていました。僕はおそるおそる、眼を閉じました。赤い色ばかりが目につきました。
しばらく眼を閉じるのが恐ろしくなりました。ご飯も食べずに、昼も、夜も眼を閉じることができませんでした。少年は僕を心配してご飯を分け与えようとしましたが、僕はそれを断り続けました。見たくなかったんです。彼がやせ衰えて気力を無くしてゆくのを。利用されているのではと考えもしましたが、それはどうだっていいことです。
「地獄」
僕はある日ぼんやりとほとんど無意識的に呟きました。あの赤い光景の正体にやっと気がついたのです。地獄。あまりにも生々しく迫るあの映像は、地獄というはっきりした記憶でした。
少年は首をかしげてわからない、といった表情を作りました。僕はそれきりなにもしゃべらないまま、ゆっくりと眼を閉じました。赤く、熱い架空の映像の先に、黒いものが見えました。それから機械仕掛けの音が。そしてそれは問いかけるのです。『救われたいか』と。
僕は笑ってそれを壊しました。万力をもって、ミシミシと機械を軋ませて、いたぶるように。僕の意識はまたそこで途切れます」
俺は彼の話を聞いていて、なぜか泣けてきた。六道骸は俺にハンカチを手渡してにっこりとほほえんだ。
「なぜあなたが泣くのです」
「泣きたくないよ俺だって」
「そうですか」
彼はチョコレートを袋から取り出して、包み紙と銀紙を剥いで中身を口に含んだ。そして軽快な音を発しながらそれをかみ砕き、しばらく黙った。