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"Chrysalis" 【Spark5:新刊サンプル3】

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(略)

「…………………………」

 そして今、アリスとエースは二人で焚き火を囲んでいる。バチバチと音を立てて薪が割れ、火花を散らす。アリスはその光景をぼんやりと見つめていた。
 元の世界に戻ってきたときには昼だった時間帯は、今は夜に変化している。服を乾かそうと言って焚き火を提案したのはエースは賢明だったのだろう。全身ずぶ濡れの状態で夜中の森をやり過ごすというのはぞっとしない話だ。
 とはいえアリスは何もしていない。まだいろいろな衝撃はアリスにダメージを与えていたし、そもそも野外生活の知識などほとんど持っていない。そうこうしている間にエースはてきぱきと薪を拾ってきて、気がつけばあっという間に焚き火の用意は完成していた。
 その間、アリスもエースも無言だった。アリスが黙り込んでいたのは状況の急激な変化についていけていなかったせいが大きい。しかしエースは違うだろう。彼の場合、普段の旅の方がよほど危険な目に合っている。ただ、今はそんなことはどうでもよく、アリスはエースが何も話しかけてこなかったことに安堵していた。意図してのことかどうかは分からないものの、考える時間をくれたエースに密かな感謝を送る。
 アリスは濡れていない箇所が一切ないほど酷い状態だった服を脱ぎ、素肌の上にエースがさり気なく貸してくれた紅い外套を纏っていた。どうやら状況を見越して先に乾かしていたらしい。これも無言のやり取りではあったものの、アリスはありがたく気遣いを受け入れることにした。こういう振る舞いだけは本当に騎士と呼ぶに相応しくて、何だか笑いが込み上げてくる。とは言っても疲れた身体では笑みを浮かべることすら億劫で、せいぜい僅かに口角を上げるくらいが精一杯だった。
 一方のエースは、アリスも割合見慣れているジャケットの下に着込んだシャツを脱いだ上で生乾きのジャケットを羽織っている。燃え盛る炎を見つめる視線は虚ろにも思えたが、時折薪を加えたりして火の強さを調整しているところからしても放心しているわけではなさそうだった。
 暫しの間、アリスは目を閉じて流れる水の音と弾ける炎の音に耳を傾けた。強張っていた心が少しずつ解れていく。そう言えばここ最近はこうやって一息つく時間すら持てていなかった。いかに自分の神経が張り詰めていたかを感じ、アリスは苦々しい笑みを浮かべた。そして横目でエースの様子を窺う。
 アリスとエースは焚き火の前に並んで座っている。しかし二人の間には距離があった。もう一人くらいなら間に割り込めるくらい。或いは、二人がそれぞれ手を伸ばせば相手に触れられるくらい。
 この距離をいきなり詰める覚悟はまだアリスにはない。だからなけなしの勇気を振り絞って、エースに声をかけた。

「エース」

 張り上げたつもりだった声は、実際には火花とさして変わらないほどの音量しかなかった。しかしエースは炎を映し出していた眼をアリスに向けた。緋色の瞳は炎に照らされて更に鮮やかに輝いている。
 その瞳をアリスは見つめ返す。ここから先は絶対に自分からは視線を逸らさないと、そう心に決めた。胸元に手を置き、一語一語ゆっくりと区切って発音する。

「あなたは、処刑人なのね」

 アリスが何を問いかけてくるのか、エースもある程度予想していたのだろう。彼は全く驚いた様子を見せなかった。僅かに瞬きの回数が増えたくらいだ。
 エースはどう答えるべきか迷う、といった風情で視線を宙に泳がせた。まず、彼が誤魔化すのではなく真面目に答えようとしてくれていることにアリスは胸を撫で下ろした。もしここでエースが曖昧な態度に出ていたならば、アリスはもうそれ以上踏み込むことができなかっただろう。事ここに至って尚そんな態度を取るというのはアリスを明示的に拒絶しているのに等しい。
 数秒の沈黙の後、結局エースは小さく頷いてアリスの言葉を肯定した。

「……そうだよ。罪を犯したのに牢獄に入りたがらない、そんな連中を処刑する。そういう役だ」

 そんなところだろうと見当はついていたが、やはり本人の口から聞くと素直に納得できた。アリスを的にした子供たちがエースに怯えていた理由もこれで分かる。何か少しでも後ろめたいことがある人間にとっては、自分を殺す正当な理由を持つ処刑人は恐怖の対象だ。そしてたとえ真っ当に生きていたとしても、多くの同類を手にかけていることが明らかな相手を恐れずにいられる人間はそういまい。
 騎士、時計屋の部下、そして処刑人。彼は一体どの役割に一番の重みを置いているのだろうか。
 そしてアリスは何よりも気になっていたことを切り出す。

「私は……あなたの狩りの、対象?」
「いや……」

 即座に肯定されることもそのまま剣を向けられることも半ば覚悟していただけに、エースがすぐさま否定してきたことはアリスにとって意外なことだった。それなら、と言葉を重ねようとしたところでエースが続ける。

「違う。今は、まだ」
「……そう」

 含意のある言葉だ。つまり、いつかアリスは罪を犯す可能性があるのだとエースは言っている。しかもジョーカーたちの態度を考えればその時はけして遠くないと思われているに違いない。アリスに心当たりはないが、それだけに不気味だ。重い塊が胸の裡に生まれて消えてくれない、そんな感覚がある。

「あなたが私に構う理由は、それ? 最初から私を監視するつもりだったの?」
「さすがにそんな回りくどいことはしないぜ。俺はただ……」

 苦笑してアリスの勘繰りを否定したエースは、けれど途中で言葉を切った。ただ、何なのだろうか。アリスには分からない。知りたいと思うけれど、問いかけてもエースは教えてくれない気がした。
 見つめあったまま再び闇夜に沈黙が落ちる。今頃、城ではペーターがアリスの不在を嘆いて騒いでいるのだろうか。なかなかあり得そうな想像だった。ジョーカーたちがどうしているのかも、気にならないと言えば嘘になる。

「……でも。俺は、どうして君を守ろうとしたんだろう」

 その台詞はあまりに唐突すぎ、アリスは一瞬言葉の意味を認識できなかった。エースが呟いたのだと気付くと同時に心の中で彼の言葉を反芻し、咀嚼し、意味を考える。
 きっと、先刻の牢獄でのことだろう。或いはその直前にあったサーカスでの諍いのことも含めているのかもしれない。丁度アリスが彼らに思いを馳せたばかりのところで、奇妙なほどにタイムリーな発言だった。
 だがエースの問いかけにアリスは答える術を持たない。そんなことはアリスの方が訊きたいくらいだ。あからさまにエースを避ける言動ばかり取っていたアリスを、本来は他人に全く興味を抱かないエースが何故庇おうとしたのか。

「……騎士だから、って言うんじゃないの。あなたは」

 常々エースが豪語している言葉を反復してやると、エースは驚いたような顔をしてアリスを見返してきた。そこでようやく気付く。あれは疑問ではなく自問だったのではないかと。
 しかしエースは、予期していなかっただろうアリスの指摘を受けて考え込んでしまった。どこか遠くを見る目をして、自分に言い聞かせるように淡々と言葉を紡ぐ。

「そう、確かにそうだ。俺は騎士だ。弱い人間を守る義務がある。でも、君は……」

(略)