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（略）

「今回はあなただけなの？」
「ジョーカーは野暮用でいねぇよ。何だ、あいつの方が良かったか？」

　皮肉げな薄い笑みを浮かべ、上半身だけを乗り出すようにしてジョーカー――ブラックさんは顔を近づけてきた。この険のある態度にも慣れてしまった。最初は嫌われているのかと思っていたが、付き合いが長くなるにつれてこれが彼の素なのだということが分かってきた。職務に対しては意外と真面目で、だから職場に勝手に入り込んでくるアリスに口煩くするのだということも。
　しかし今回はアリスに対する態度が柔らかい。普段なら山のような罵倒が飛んでくるところなのに皮肉とも冗談ともつかない台詞一つで終わりとは。機嫌のいいブラックさんというものをほとんど目にした事がないので推測になってしまうが、不機嫌ではないどころかもしかすると上機嫌なのかもしれない。珍しいことだ。
　試してみようか、と思う。アリスは少し考えてから慎重に口を開いた。

「……そうね。どっちかと言うと、二人とも遠慮したいわ」
「はっ、言うねえ」

　かなり毒のある切り返しだったはずだが、ジョーカーは身を反らせて笑い飛ばすに留めた。理由は分からないもののやはり機嫌がいいらしい。慣れたとはいえ罵声と文句を聞かないで済むならその方がいい。ここから先は彼の機嫌を損ねないようにするべきだろう。
　アリスがそう心に決めた時、ふとジョーカーの視線がアリスから逸らされた。正確に言うならば視線の先がアリスの顔から手元へと移った。釣られたようにアリスも自らの手元を見やり、自分が食べかけのクレープを握り締めたままだったことにようやく気付いた。

「いいもん持ってんじゃねぇか。寄越せ」
「え？　あ、ちょっと……！」

　寄越せ、と。一方的に言うや否やジョーカーはアリスの手首を掴み、身を屈めてクレープに歯を立ててきた。アリスが止める暇もなく結構な量を食いちぎっていく。
　呆気に取られたアリスが呆然と眺める中、ジョーカーは舌を出して唇についたクリームを軽く舐め取った。いい歳をした、しかも冷静に観察すれば見目の良い青年のすることなのだから普通なら煽情的な仕草なのだろうが、この状況ではどこぞの悪餓鬼にしか見えない。

「チョコレートとバナナか。普通だな。もっと独創性のあるもん食えよ」
「……仮面でも人間でも、食い意地が張ってるのは変わらないのね」
「ったりめぇだろ。俺は俺だ」

　やったことは他人の食べ物の横取りだというのに、ふんぞり返って口にする台詞はやけに堂に入っている。あまりに堂々としすぎていて言い返す気も失せてしまうのは、ある意味ジョーカーの長所なのかもしれない。
　この台詞自体はよくジョーカーが言うものだ。俺は俺で、代わりはいないと。しかしアリスにとっては聞くたびに新鮮な感動のようなものを抱く台詞でもある。自分や他人の命に拘りというものを持たず自分には代わりがいると繰り返す人間ばかりのこの世界において、ジョーカーはかなり特異だ。
　左手首を掴む手を振り払いつつアリスはジョーカーを見上げた。そして彼の左頬に生クリームがついていることに気付いた。無茶な体勢でクレープに齧りついた代償だろう。

「クリームついてるわよ。ほら、そこ」
「あ？　どこだよ………………取れたか？」

　指摘を受けたジョーカーは手の甲でごしごしと頬を擦った。が、見当外れのところばかりで未だにクリームは頬についたままだ。そのままジョーカーが悪戦苦闘する様を眺めていても良かったのだが、ふと気が向いたのでアリスはジョーカーの袖口を小さく引っ張った。ジョーカーが訝しげな眼差しを向けてくる中、右手を伸ばす。

「取ってあげるからちょっとじっとしてて」

　おそらく反射的に従ってしまったのだろう、ぴたりと動きを止めたジョーカーの頬からは指先で簡単にクリームを拭き取ることができた。拭き取ってから、ハッとした。

（……どうしよう）

　そう、指だ。ジョーカーの代わりにクリーム塗れになった自らの人差し指を見つめてアリスは途方に暮れた。今更ながらにハンカチを出せばよかったと悔やむ。どう処理していいのか分からない。舐めるというのは気が引けた。行儀が悪いというのもあるが、最大の問題はもっと感情的な部分にある。アリスは暫し真剣な表情で指先を見据えたまま固まってしまった。

（略）