ポケット
バベルの職員用の地下駐車場に、今日も愛車が滑り込む。
フロントガラスの向こう、ほどよい明るさの駐車場の隅で、ちょうど賢木がいつものバイクから降りる姿が見えた。医局勤めの賢木とは朝は滅多に一緒にならないのだが、どうやら今日はたまたま同じ出勤時間だったらしい。
車を降りた皆本は、地下特有の底冷えするような寒気に思わず首をすくめる。この冬一番といわれる寒気団が日本列島に居座っているせいか、今朝は特に寒さが厳しい。皆本は白い息を吐きながら車に施錠し、まっすぐ駐車場を横切って友人の後ろ姿に声をかけた。
「賢木、おはよう」
あ? と振り返った賢木の顔に、皆本はぎょっとした。
「……ど、どうした賢木。唇が紫だぞ」
「どうしたも何も……見ろよこの格好」
かちかちと細かく歯を鳴らして震える賢木は、よく見れば手袋もマフラーもしていない。おまけに裸足にじかに靴を履いているようだ。かろうじてジャケットこそ着ているが、その下は薄手のシャツ一枚きりらしく、この季節のバイク乗りにあるまじき軽装だった。
「その恰好でここまで来たのか!? いつもはもっと重装備してるじゃないか」
「やー……ちょっと出掛けにトラブルがあってさ」
賢木とはもう数年越しの付き合いだ。その曖昧な言い方でピンときた。
「また女性関係か」
「ははは」
「はははじゃない!」
大方、何人かいる賢木の遊び相手の女性たちが、朝の出しなに鉢合わせでもしたのだろう。
「やー、玄関先でマジ修羅場っちゃってよ。焦った焦った」
それで取っ組み合う女の子たちを家に残して、着の身着のままさっさと職場まで逃げて来たというわけらしい。
「……いつもながらお前ってやつは」
プレイボーイを自称する友人から、この手のブッキングの話を聞くのはもう何度目か。女好きなわりにこんな風に詰めの甘いところが、憎めない男ではあるのだが。
「この恰好だからせめて電車かバスで来ようと思ったんだけどさ、さすがに慌てて出てきたから財布忘れてきちまって。だからこのバイクも実は今無免許運転」
「おいおい……まったく、医者のくせに風邪ひくぞ。待ってろ、確か」
コートのどこかに使い捨てカイロを入れておいたはずだ。皆本がコートのポケットを探っていると、突然そこに賢木がズボッと手を突っ込んだ。氷のように冷たい手が、皆本の手を無理矢理つかむ。
「ふー、あったけー」
「こ、子供みたいなことをするな! 冷たい! 手が冷たい!」
「皆本の手超あったけー」
「わかった、わかったから中に入るぞ! さっさと来い!」
賢木のてのひらはポケットの中で、皆本の手をがっちり捕まえている。冷え切った手を無理に振りほどくのはさすがに少々忍びなく、仕方なく賢木を連れてビルの通用口まで歩き出した。
駐車場に誰もいなくてよかった。十代のカップルじゃあるまいし、二人でコートのポケットの中で手をつないで歩いているところなんて、もし誰かに見られたら恥ずかしさで死ねる。
「……説教したくはないけどな」
「ん?」
いたたまれなさから、普段は言わないことが口をついた。
「いつまでもそんなにだらしない生活してたら、お前、いつか本当に刺されるぞ。これを機会に、もう少し真面目な付き合いができる相手を探したらどうだ?」
「結婚相手探せって?」
「そこまで言ってない」
やや皮肉げな賢木の言葉に、通用口のセキュリティに職員IDを通しながら、皆本は首を振った。
「一人に絞れってことだよ。お前はもてるんだから、出会いの機会はたくさんあるだろ? あとはお前が関係を続ける努力さえすれば、きっといい相手が見つかると思うんだ」
「簡単に言うよなあ。根拠あんのかよ、それ」
「お前がいい男なのは、僕が一番よく知ってる」
IDチェックを通過してビル内に入ったところで、なぜか突然賢木が激しく咳きこんだ。
「おい、大丈夫か」
「や、ちょっと噎せただけだ。なんつーか、天然ってこええなあ」
「は?」
「何でもない。じゃ、俺もう行くからな。今朝は急ぎの仕事があるんだ」
「あ、ああ。風邪引くなよ」
わかってるって、と賢木がポケットから手を出して、先に自動ドアをくぐっていく。
「ちゃんとシャワーでも浴びて暖まれよ」
おーう、と背中がわざとらしい了解の合図をとったが、賢木は振り返りはしなかった。その背が早足に角を曲がるのを見送って、皆本はふと、ポケットに入れたままだった自分の手を見下ろした。
使い捨てカイロは、コートのポケットの中ですでに冷たく、固くなりかけていた。そして賢木の手は確かに冷たかったはずなのに、つかまれていた自分の掌はいつのまにか、ひどく熱くなっていた。