ある雪の日
兎に角ウクライナは妹の姿を巨大な軍用車の上に見つけたとたんに駆け出した。昨日まで嵐だったし、今だって曇りっぽい天気なのに幌はあげられている。駆け出したところでもうまわりに何重もの人垣が出来ていたから、あれは誰だとざわつく男たち(驚いたことに、もう兵士だけでなく農民たちまで集まっていた)を掻き分けながら進んでいった。
やがて人だかりの中心にたどり着いたとき、ベラルーシはひたすらに「姉を探している」、とだけ繰り返していた。
「ねえ、お姉さんはどんなひと?僕が探してきてあげますから、あちらの天幕でひとまずはお茶を一杯どうです。秘密のお菓子もあるんですよ」
「言っていることが矛盾しているわよ、フョードル・イリイーチ」
「あ、これはこれは……」
「行きましょう、妹よ」
大隊一番の色男と噂されているソチ出身の大尉を押しのけて、ウクライナは妹のとなりに出来るだけ早く飛び乗った。ふんと鼻を鳴らしたベラルーシは、もう下々には目もくれずにアクセルを踏み込んだ。それでウクライナは誰かを轢きやしなかったかと慌てて振り返ったが、すぐにそれどころではなくなった。
車が雪原の中を全速力で進んでいく。晴れた日だったからよかったようなものの、これが吹雪の中だったらとんでもないことになっていただろう。勿論周りを見渡す余裕も何もなくて、けれど駐屯地からいくら離れてもスピードが落とされる気配もなかったから、仕方なくしがみついたままでウクライナは妹に向かって叫んだ。
「ベラルーシ、これ、どこに、行くの?!」
対して妹は平然といくつかまばたきをして長いまつげの上にかかった雪を払い落としてから、声を張り上げるでもなく、
「遠乗りよ」
「遠乗り?!」
「そう。姉さん、あまり話さないで。舌を噛みたくないんなら」
「そんなこと、言ったって……ッ」
些細な仕草に気づいたのは、まっすぐ前を見ていた彼女が前兆として頭を振った隙に髪がウクライナの頬にかかったからだ。こんな遠乗りがあるもんですか。言葉は容易く風に掻き消される。コートの中に顔をうずめてウクライナは呻いた。こんな遠乗り、あるもんですか。車はすでに林を抜けて、雪原の中で坂をのぼりはじめている。つられてエンジンが苦しげな息を吐きはじめたころ、やっとウクライナは妹の腕を掴んでちゃんと話すことができるようになった。それでも息を切らしながら、ではあったが。
「ねえ、ベラルーシ。行き先は、もういいから、今、どこにいるのか、わかってる?」
すると驚いたことに雪の上を何メートルも滑ってから、危うく禿げた白樺の木にぶつかりそうになりながら車が止まった。
「うるさいわよ姉さん。それくらいわかってるに決まってるじゃない」
「そう、それならいいんだけど、でも……」
「でも、何」
「でも、お姉ちゃん、心の準備がしたかったわ」
それでベラルーシが今日はじめて姉のほうに顔を向けた。何も語らない瞳がウクライナを映し、やがて彼女は首に巻いていたマフラーを投げてよこした。
「まったく、帽子もかぶらないで」
途端に無表情な中に真面目さの影がさしたのが見えてウクライナは少し笑った。いまさらのようにあたりの寒さが感じられたのである。
「それもベラルーシがお姉ちゃんに準備させなかったから」
ありがたくマフラーを受け取りながら顔の周りにフード代わりに巻く途中に触ってみた耳はミトン越しでもわかるほどこわばっていた。そうやってウクライナが身支度を整えていくのをじっと見つめていたベラルーシは、姉が彼女にぴったりと身体を寄せて前を向くと再びアクセルを踏んだ。今度は、もうすこし常識的なスピードで。
彼女が話したかっただけなのだとすぐに分かった。
「姉さんの「でも」を借りれば――でも、出かけたいって言ったのは姉さんだ」
「わたしが?」
「そう」
「だから?」
「だから」
「そう」
思い出せなかった。
けれどウクライナはあえて思い出す努力もしなかった。しようとも思わなかった。あの妹が、弟の言葉に福音のごとく固執こそすれ、姉には返事のひとつすら惜しむ妹が、ウクライナ自身ですら無意識のうちにこぼした言葉を拾い上げて現実にしてくれた。それだけで十分だった。
突然大にこにこになった姉に妹は疑り深い一瞥を投げつけたものの、何も言わずに運転を続けた。ウクライナも妹に寄りかかったまま今はもはや何も考えずにあたりを見回した。
車のフレームがときどき裸の枝に引っかかってふたりの上にぱらぱら雪を落とした。その度に払いのけて積もらせないようにしたけれど追いつかないまま、また開けた場所に出る。新雪の上にたどりついて、車の速度がもっと落ちた。勿論その下には雪の地層があって、押しつぶされたそれらが凍って滑りやすいポイントもあったけれど、車は不思議なほどすいすいと進んでいった。タイヤが跳ねのける雪は灰色、地面に積もったのは青白く、ひざの上では太陽に照らされて輝いている。
飽くほど眺めてきたはずの白い風景も、妹の背景としてみれば色の移り変わり、グラデーションが明らかになる。そしてベラルーシがいた。すこしだけ顎をそらして、前ばかり見ている彼女はそのことに気づいていただろうか?
しかしやがて陽は陰り、風が吹き出さないうちにベラルーシはもう元の猛烈なスピードを取り戻していた。
「じゃあ姉さん、またあとで」
気がつけばウクライナはふらつきながらもなんとか地面を踏んでいた。来たときと同じく唐突に、言葉を投げつけておいて妹は行ってしまった。いつの間にかウクライナの周りには、これもまた行きと同じような、ただしそれよりも少しはお行儀のいい人だかりが出来ていた。誰かがウクライナに言った。確かに感心しているような口調で、
「すごい妹さんですね」
「すこしも笑わなかった」
「大した女傑だ」
吹雪になりそうな風の中で去っていった後ろ髪のなびくさまをなんとかとらえようと意味のない背伸びをしながら、彼らに応えるでもなくウクライナは呟いた。
「でも、ベラルーシは笑わなくったって可愛いんだわ」