フレグランス α
どこか独特な甘い香りを感じ、紀田正臣は眼を覚ました。
薄く瞼を開き、布団の中、身を捩る。
左腕を下にして眠っていたようで、指先から二の腕にかけてじんわりとしびれていた。
「いってぇ・・・」
呟いて、左の手をゆっくりと握り、開く。
鋭い痛みにも似たしびれが走ったが、何度も繰り返した。
ひとつあくびをして、手のひらから視線を上げる。
次第にはっきりとしてきた視界の端に映ったのは、きめの細かい黒髪。
「臨也さん・・・?」
正臣の視線の先、折原臨也はそこにいた。
まったく、毎回毎回、この人はどうやって俺の部屋に入ってくるのだろう?
そんなことを思いながら身体を起こす。
当の折原臨也は、正臣の寝ていたベッドに背を預け座っていた。
「・・・寝てるんですか?」
ベッドから片足を下ろし、臨也の顔を覗き込んでみる。
瞼を閉じ、薄く開いた口からは規則的な呼吸音。
ここまで無防備な臨也の姿は見たことがなくて、正臣は思わず口元に微笑を浮かべた。
「・・・なんか変な感じだ」
正臣が珍しく風邪をひいてから5日あまり。
病院に行き、薬を処方してもらったものの、症状が改善される様子はなかった。
普段風邪などひかないから、身体がついていかないのかもしれない。
昼間、平熱近くまで下がる体温は夜になるにつれ上昇し、普段寝る時間になる頃には息をするのもつらい程になる。
身体の節々が痛みろくに眠れないまま朝を迎え、そのせいで昼間うとうととまどろむ日が続いている。
『正臣、大丈夫?』
『りんごとか買ってきたんです。よかったら食べてくださいね』
学校を休んだ初日、帝人と杏里が心配して来てくれた。
「何かすることはないか」、「何かほしいものはないか」と二人が心配してくれる。
「お粥でも作ろうか?」、「氷枕とか要りますか?」と看病をしてくれようとする二人の気持ちはありがたかったが、返事をすることさえ億劫だった正臣は二人の申し出を断った。
そんな正臣の体調を察したのか、それから二人はメールと差し入れをくれるようになった。
『桃の缶詰とか買ったから、食べれそうなら食べて。ドアにかけておくから』
『担任の先生にはお休みするって伝えておいたので、ゆっくり休んでくださいね』
二人からのメールを読み、「早く治さないと」と思うのに。
なかなか戻らない体調に苛立っていたところへ、臨也は再びやってきた。
『ほんと珍しいねぇ。君がこんなに寝込むなんて』
うなされ、目を覚ました正臣に対して、開口一番臨也が言う。
自分の部屋の中、我が物顔でくつろぐ臨也に正臣が顔をしかめると、彼は嬉しそうに笑った。
『起きられそうかい?食べられるなら少しでも食べたほうがいい』
そう言って、最初の日にそうしてくれたように、盆にお粥の入った器を持ってきてくれる。
相変わらず粥は温かく、優しい味がした。
それから臨也は昼夜を問わず、正臣の部屋に現われるようになった。
初めのうち、何を言われるのか、何をされるのか気になっていた正臣だったが、臨也が部屋を訪れている時はすんなりと眠ることができた。
うなされて、突然目を覚ますことも少なくなっていく。
症状が良くなったのかとも思ったが、それは臨也が部屋にいる時のみのようで、なんとも複雑な気分になった。
目を覚ますと正臣の部屋の片隅に座っていて、次に目を覚ました時はいない。
日に何度出入りしているのか、それともずっといるのかわからない。
そのうち、どうやって部屋に入ってきたのかもどうでも良くなって、正臣はこの状況を甘受し始めていた。
『それにしても珍しいな・・・』
そんなことを考えながら、正臣はベッドから下りる。
臨也は相変わらずベッドに背を預け、静かに寝息を立てている。
「こんな無防備なとこ、絶対人に見せなそうなのに」
臨也の正面にぺたりと座りこんでその寝顔を眺める―意外にまつ毛が長い。
僅かに距離をつめて覗き込もうとすると、先程も感じた甘い香りに気がついた。
「・・・・香水?」
あまり嗅いだ事のないその香りは、やはり臨也からしているようだった。
柑橘系のようでいて、時折グリーン系の落ち着いた匂いもする。
不思議と、気持ちが楽になるような香りだった。
『香水とかあんま興味なかったけど・・・いいな、この香り・・・』
臨也の首筋に顔を近づける。
熱がひいて落ち着いていたはずなのに、先程より強く感じる香りに、正臣の鼓動がはやくなる。
そして、ひとつの思いが胸に浮かぶ。
『触ってみたい。触ってほしい』
目の前で眠る、臨也の黒髪に。
ほんのわずか、薄く開いた唇に。
射るような鋭い視線を覆い隠している瞼に。
膝の上に投げ出された手のひらに。
そんな自分の中の欲求に気づき、正臣は思わず身を固くした。
『何考えてんだよ、俺!』
慌てて臨也のそばから離れ、立ち上がる。
よろけて転びそうになるのを堪え台所まで歩くと、コップに水を汲み一息に飲み干した。
『ありえねえだろ・・・』
心の中で僅か数十秒前の自分にツッコミを入れ、深く息を吸い込む。
吸った時と同じだけの時間をかけて息を吐き出してみても、はやくなった鼓動は元に戻らない。
息を吸って、吐いてを繰り返す正臣の鼻孔に、その香りは届いた。
「起きたんだ?具合はどうだい?」
びくりと肩を震わせて振り返ると、臨也が立っていた。
台所と寝室を区切る引き戸に手をかけ、いつものように底の知れない笑みを浮かべている。
流し台の前につ正臣のほうに一歩踏み出すと、あの匂いが一層強く香った。
『ああ、ダメだ』と正臣は思う。
「臨也さん・・・っ!」
コップを置き、ぶつかりそうな勢いで臨也に近づく。
『触りたい、触ってほしい、触りたい』
そう思って、半ば駆け寄るように近づいた正臣の身体を、臨也は肩を押さえて止めた。
「あ・・・」
臨也に肩を押さえられ、自分が何をしようとしていたのか、正臣は改めて理解する。
自己嫌悪と羞恥に顔を俯けると、臨也が笑う気配がした。
そして、
「今日はここまで、だよ」
そう言われた直後に感じたのは、額に温かな感触、すぐそばに臨也の香水の香り。
ほんの一瞬のことに慌てて顔をあげると、臨也は平然とした顔をして正臣から離れた。
そのまま玄関に向かい靴をはく。
「もう少し寝た方が良さそうだ。気が向いたらまた来るよ、紀田正臣君」
正臣の方を振り返らぬまま、ひらりと手を振り正臣の部屋を出ていく。
パタン、と小さな音を立てて閉まった玄関の扉を見つめたまま、正臣は立ちつくす。
「なんなんだよ・・・」
額に手をやる。
熱は下がったはずなのに、触れられたそこはまだ熱を帯びているような気がした。
「訳わかんねぇ・・・」
それは自分の思いについてなのか、臨也の行動についてなのか。
呟いた言葉の最後は、擦れて自分でも聞き取れなかった。