天上の青3
「いくぞ、カイト」
「はい」
何を聞いても答えてはくれないけれど、私の名前を呼んでくれるから。
それで満足なのだと、自分に言い聞かせてきた。
けれど。
黙って歩くマスターの横顔に、私は、何度目かの問いを発した。
「マスター、そろそろ、マスターの名前を教えてください」
「何故?」
「知りたいからです」
「教えたら、お前は俺を、名前で呼ぶのか?」
「・・・それは」
何度も繰り返されたやり取りに、同じところで口ごもる。
マスターは、帽子をかぶりなおしながら、
「呼ばないなら、知る必要はない」
「でも・・・」
もっと、あなたを知りたいのです。
もっと、あなたに近づきたいのです。
それは、不相応な願いでしょうか。
「それに、俺は、『マスター』と呼ばれるほうがいい」
「何故ですか?」
戸惑う私に、マスターは笑って、
「お前と繋がっていられる。お前が主と認める限り、俺はお前のものだ」
「え?」
驚いて、思わず足を止めた。
自分で自分の顔が赤くなるのがわかる。
「マ、マスターは・・・私のものなのですか?」
「ああ、そうだ。知らなかったのか?」
からかわれているのだろうか。
まともに顔を見ることができず、私は俯いて、自分の足先に視線を落とした。
「わ・・・私は・・・マスターのものです」
「知っている」
至極当然のことのような主人の言葉に、耳まで熱くなる。
あなたにとって、それは当たり前のことなのでしょうか。
当たり前のように、私は、あなたの傍にいることが、許されるのでしょうか。
「いくぞ、カイト。日が暮れる前に、仕事を終えてしまいたい」
「・・・はい」
再び歩き出したマスターの背中を追って、私も歩きだす。
水の音が近づいてきたと思ったら、小川のほとりに出た。
一人の女性が、腰をかけて、水面を眺めている。
「こんにちは、お嬢さん」
マスターが声をかけると、女性は振り向いて、
「こんにちは。いいお天気ね」
「ええ、本当に。お邪魔しても?」
「どうぞ。一人で退屈していたところなの」
女性に促されるままに、マスターは腰をおろした。
私も、マスターの隣に座る。
女性は、マスターのほうを向いて、
「不躾なことを聞くようだけど・・・どなたかの葬儀がありましたの?」
「ええ、ありました。あなたのです」
にこりともせずに言ったマスターの言葉に、女性は目を見開いて、
「まあ、私の?では、あなたは・・・」
「死神です」
女性は、もう一度「まあ」と言ったきり、黙り込んでしまった。
せせらぎの音と、木の葉のそよぐ音が、やけに大きく響く。
小さな蜂が飛んできて、ぐるりと頭上を回った後、どこかへと飛んで行った。
「カイト、歌って」
唐突な主人の言葉に、私は驚いて、顔をあげる。
「あの・・・何を、歌えば・・・」
「何でもいい。カイトの好きな歌を」
そう言われても、私が知っているのは、前のマスターが教えてくれた歌だけ。
あなたは、何も教えてくれない。
それでも、マスターの指示は絶対。
私は、息を吸い込むと、前のマスターが作った歌を紡ぐ。
亡き妻へと捧げた、愛の歌。
高く、低く。今は亡き主が、教えてくれたように。
久しぶりの歌は、私の心を高揚させた。
自分でも驚くほど、感情豊かに表現できた気がする。
マスター、褒めてくださいますか?
歌い終わり、わずかに息を弾ませながら、マスターに視線を向けた。
マスターは微笑みながら頷き、拍手を送ってくる。
「うん、いい声だ。カイトは、歌が上手だな」
「ありがとうございます」
歌い終えた満足感と、主人に褒められた嬉しさに、全身が満たされる思いがした。
マスターの視線が動いたのに合わせて、私もそちらを向く。
その時、初めて気がついた。
女性の姿は、影も形もなくなっていて。
代わりに、淡い光の玉が一つ、ふわりと浮いていた。
声もなく見守っていると、光の玉はすっと空へと浮かんでいき、そのまま見えなくなる。
マスターとともに、空を見上げていたら、
「これで、今日の仕事は終わりだ」
「はい」
マスターが立ち上がったので、私も腰を上げた。
「いくぞ、カイト」
「はい」
たとえ、地の果てまでも。
私は、あなたとともに参ります。
終わり