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違ったんだ、最初に思ったのはそれだった。
私はもう存在しない彼に、夢の中で恋をしていた。ジーン。名前も知らない彼を、ナルだと思って。好きかと聞かれれば好きだ、と即答できていた私は、その時から自分の気持ちに迷うようになった。私が好きなのは、誰?

渋谷の一等地に位置する渋谷サイキックリサーチでは、一時休業のため朝から慌ただしく休業準備が行なわれていた。所長である渋谷一也、ではなくオリヴァー・ディヴィスの日本滞在の理由が無くなり、一旦本家SPRのあるイギリスに帰国することになったのだ。バイト兼雑用の谷山麻衣は朝から事務所の掃除に手を動かしている。
「な・ん・で!私だけが事務所の掃除なのよー!」
びちゃり、とよく絞られていない雑巾が水音を発した。麻衣が拭いた棚から水がぽたぽたと滴る。
「貴女では、要る物と要らない物の判別がわからないでしょう?」
麻衣の怒りのひとりごとに、事務的に答えたのはリンだった。やる気なさげにびちゃびちゃやっている麻衣を見て、苦笑する。この少女は、こうやって、上司に反抗しているのだ。それが叶わないことであるというのはわかっているけれども。
「・・・だって・・・。」
むうと頬を膨らませた麻衣を見て、リンはついに吹きだした。くっくっと笑うと麻衣はむううと怒ったようにリンの名前を呼ぶ。
「リンさん!」
「失礼しました。・・・今日の夜、ナルは空港に向かう前にもう一度事務所に立ち寄るようですよ。」
リンがさりげなく言うと、麻衣はぱあと顔を輝かせた。きっと二人きりでゆっくりと話せるチャンスはそのときだけだ。
「・・・ありがとうございます!リンさん!」
「いえ、全ては貴女次第ですから。」
リンが少しだけ微笑むと同時に、所長室の扉が開いた。
「リン、ちょっと手伝ってくれ」
ナルに呼ばれ、リンは所長室に消えて行く。

バイトが終わり、麻衣は家に帰ってしばらくしてから再び事務所に向かった。リンはホテルで荷造りをするため、事務所にはナルしかいないのだという。麻衣は自分の頬を両手で叩いた。
「・・・よし!」
大きく足を踏み出した。真実を伝えるために。

ナルはまだ荷造りをしていた。もう大きな荷物はリンがホテルに運んでいて、残っているのはファイルや本だけだった。今日の夜には、ナルはイギリスに発ってしまう。麻衣が所長室の扉を開けると、ナルは目を見開いた。
「・・・まだいたのか」
「まだ、っていうか。最後に、ナルの顔拝んどこうかと思って。」
麻衣がへへ、と笑うとナルはふうと溜息をついて手元にあるファイルを鞄に入れる。
「・・・ジーンに似ているからな、僕は。」
ふいと顔を背けると、麻衣は拳を握っていた。いつもの「ばっかじゃないの!?」が返ってこない。ナルが麻衣のほうを向くと、ふるふると震えていた。
「・・・どうした?」
「な、んで・・・そういうこと・・・言うの」
麻衣の瞳には涙が滲んでいた。
「・・・よく言われる。ジーンが付き合ってくれないから、代わりに付き合って、って。」
昔から、ずっとそうだった。ジーンとナルはお互いでしか気付けないほどよく似ていた。もちろん同じ顔で、性格がいいジーンのほうがモテたけれど、この顔ならどちらでもいいという女もいた。
「私は、・・・違うもん」
麻衣はごしごしと目を擦った。
「何が違う?夢の中にでてきたジーンを僕だと思ったんだろう?そして夢の中の僕に、つまりジーンに好意を持った。違うか?麻衣」
「・・・もう、泣かない、って決めた。全然違うよ。ナル。私、やっとわかったの。私は、ナルのことが好きだよ」
「だから、それは夢の中の僕だろう?」
話にならないとナルはひらひら手を振った。近付いてきた麻衣に、手を掴まれる。
「全然違う!私はねえ!ユージン・ディヴィスでもない、オリヴァー・ディヴィスでもない、渋谷一也が好きなの!私を守ってくれた、私を励ましてくれた、ナルが好きなの!」
一息で荒々しく言い切った麻衣は、ふうと息をつく。ナルは麻衣の勢いに驚いて、しばらく面食らっていた。
「・・・好意の押し付けは迷惑だと、言ったはずだが」
ナルは、動揺していた。麻衣はジーンのことが好きだと言っていたのに。まだ手は掴まれたままだ。
「知ってるよ。返事なんかいらない。私が勝手に好きなだけだから。・・・私は、ナルのことが好きだよ。」
ナルはこんなものを、知らなかった。ナルは今までジーンの代わりでしかなかった。ナルを、求めてくれる人はいなかったから。にこりと笑った麻衣を、ナルは抱きしめた。
「な、ナル・・・?」
驚いた麻衣は声を上擦らせた。
「・・・お前を、雇ってよかった」
他の誰でもなく、ナルを必要としてくれる、ただ一人の少女。初めて会ったときはなんと愚かな人間だと思ったけれど。馬鹿のくせに勘が良くて、馬鹿のくせにセンシティブで、唯一ナルに真正面から向き合う少女。馬鹿のくせに、ナルの心を落ち着かなくする唯一の存在。出会えてよかった、とは言わなかった。
小さな声で掛けられた言葉、それは麻衣にとって最大級の褒め言葉だった。火照る頬を隠しながら、ナルの肩に頭をのせる。
「うん、あたしも。SPRで働けてよかった。・・・ありがとね、ナル」
「・・・留守を、頼んだ」
抱きしめていた腕を解くと、麻衣の頭にぽんと手をのせた。荷造りの終わった鞄を背負うと、所長室の扉を開く。
「じゃあ、また」
ナルは少しだけ笑ったように見えた。
「行ってらっしゃい、所長」
敬礼のポーズをした麻衣は、晴れやかな顔で笑った。