いま、胎児に還る
嗤った少年の眼窩はすっかり乾いてしまった。
漕ぎ手がいないボートは上質な天鵞絨のようになだらかな皺が現われては消えていく水の上を音もなく滑っている。舵も備え付けられていないものの、どうも行き先は決まっているらしく速度も方向も一定のままだった。流水の上にいるはずなのに空気は澱んで、ときどき湿った風が吹いては、少年の頬にかかる金色の髪を申し訳程度に乱した。
その度に白い手袋に包まれた細い手が元の形に整える。目にかからないように、妙な癖がつかないように。丁寧に梳き終えればまたもととおり膝上に戻ろうとする手を少年が不意に留め置いた。自らの指を添えて、ずっと小さい手をしているくせに包み込もうとする。上目遣いに見上げた手袋の主、眼鏡をかけた男は無表情のまま空いているほうの手を上げかけたが、すぐにこれも膝上に降ろした。
「クロードはもっと遅いのかと思った。そしたら、まず一回お仕置きしてやろうかと思ったのに、つまんないの」
「………………」
「それ以外にも、クロードにはいろいろ罪状があるんだよ?身に覚えがないなんて言わせないから」
「………………」
「ああ、そういえば、セバスチャンがクロードのことメリメリしてたの、あれはよかったな。ハンナはもうレヴァンティン出せないのかな。おれも貸してもらって、メリメリしようかなあ」
「………………」
「なァーんてね。おれにあんなでっかい得物が持てるわけないよ。お仕置きのことも冗談。ほんとうは、何も考えていないんだ」
安心した?クロード。
すると男の金色の瞳がすう、と細められた。つられて少年がその膝の上で身動ぎをする。指に力を込めて男の手を自らの頬に押しつけながら、背中を弓なりに逸らせたせいいっぱいの上目遣いで男の目に映り込んだ自分の影を探した。
「ねえ、クロード」
男は動かなかった。
「クロードってば」
少年がもどかしげに身を捩り、黒い三つ揃いの膝の上で金髪が擦れる。容易く砕かれた小さな頭が男の太腿から落ちないでいるのは、殆ど奇跡だと言ってもよかった。
「クロードが答えてくれないと、おれ、泣いちゃうよ――?」
ボートいっぱいに詰め込まれた黒百合の中に仰向けで横たわり、男の膝に頭を預けた少年は不敵に笑っているのに、眼窩には再び透明な液体が溜まりはじめている。彼が大きく動くたびにどこかで花が押し潰されて、辺りに腐敗臭に限り無く近い纏わりつくような芳香が立ち込めた。
「お戯れを」
少年がもう一度カラカラと笑って、
「動かないでください。いま、ハンカチで」
男の言葉を遮り、乱暴な手つきで目を擦るが、なかなか止まろうとしない涙が筋を作ってなめらかな頬の上を這っていく。それを止めようと伸ばされた手を掴んで、猫のように頬をすり寄せた。碧色をした瞳はしかし少年の右手に覆われたままである。隠し切れない目の周りの白すぎる肌はあっという間に赤らんでいった。あれ、おかしいな。小さな呟きがこぼれる。おかしいな。おかしいな。違うのに。ひとつ言葉をこぼすたびに少年の笑みは歪み、さらにひとつ続けば声が危うい喘ぎのように変化する。違うよ、クロード。もはや悲鳴にすら聞こえる声が喉から絞り出されたとき、男が捕まれていないほうの手で双眸の上で落ちつかなさげに振る舞っていた指を外した。
「クロード……」
けれどそれっきり、動きは止まってしまう。先程とは打って変わって男の視線から逃るために身返りしようとして、やんわりと、なのに確かと押さえ付けられているのに気付いた少年が目を見張った。再び見上げたレンズの向こうの金色が瞬きひとつせずに少年を捉えている。
標本になった蝶を留めるピンのようだ、と思った。
悪くない、とも思った。
「ほんとうは、たくさん考えてたのに、全部忘れちゃったんだ」
だからなのか、涙はいとも簡単に止まってしまい、少年はすこしだけ自分の単純さに苦笑した。
「あれもしよう、これもしてもらおう、って……クロードがもうおれのこと、興味がないって言うんなら、それはそれでお仕置きになるだろうかって、いろんなこと、考えてたはずなんだ」
「………………」
「でも、もう忘れちゃってもいいや」
瞼を降ろして、満足げなため息を吐く。膝元に預けられた身体はすっかり弛緩してしまい、男は少年の頭やら腕やらを引っ張って安定させようとしてやったが、すぐに無駄だと分かり結局は抱え込むようにぐったりした少年の横たわる位置を整えた。その間中、少年はくすくす笑うばかりだった。
と、不意に瞼が開かれ、幾度かの瞬きのあとで少年が早口で、ほの暗い中でもそれと分かるくらい頬を赤らめて、
「でも、おれこれからはもっとわがままになってやる。それでもう思い出せなくってもいいって分かったんだ。だって、クロードが――なら、別に急ぐ必要も何もないし、そうでしょ?とにかく言いたいこと、我慢とかはぐらかしとかめんどくさいの全部省いて言うから、覚悟しといて。お前のこと、いいようにこき使ってやるから」
「それは、楽しみですね」
レンズの向こうの瞳は相変わらず冷たいままだったけれど。
「だったらなんとかしろよ、クロード」
「イエス、ユア――」
「ああ、それと、その呼び方」
「……?」
「それもどうにしなきゃ、な」
「では、どうお呼びすればよろしいでしょうか」
「あとで考えてやるから、今はすこし、眠らせて」
その台詞を震えずに言い切った少年はようやっと、今度こそ目を瞑って小さく欠伸をした。ああ、眠い。しゃべり疲れちゃったんだ。クロードのせいだよ。わざとらしい呟きはすぐに静かな寝息に取って代わられる。
ボートが音もなく死んだ水の上を滑っていく。
黒百合の花に埋もれて乗っているのはひとりの男とひとりの少年。少年は男の膝の上で唇を薄く開いて眠っている。男はじっと少年の身体をまるめた寝姿を見つめている。ときどき指を伸ばして、風で乱される金色の髪を整えてやる。
船へりから花がひとつこぼれ、しばらく揺れたあとに波紋を残して沈んでいった。まるい反響は船のうしろに伸びる波に合流し、やがてそれも消えてしまった。