凶王の首はねたる事
あの日の戦いは家康の勝利に終わり、未だ息のあった三成を家康は捕らえさせた。ここで生かしてもいずれ処刑しなくてはならないことを分かっていながら、家康は一縷の望みを捨て切れなかった。泰平の世にて三成を、健やかに生かすことが出来たなら。自分の選択を誤りと思ったことはなくとも、完璧とは思えていなかった家康にとって、それは夢にも似た図だった。
その夢ゆえに、家康は三成と対する場を設けようとした。だがそれは結局、一度も叶うことがなかった。石田三成はまさに手負いの獣であり、たとえ牢越しでも会わせることなど出来ぬと言う。
荒い息をこぼし、目を爛々と光らせ、化け物のような気を纏い、人の言葉に耳も傾けなければ、自ら言葉を発しもしない。食事を与えようにも噛み付こうとしてくる有様で、手当ても儘ならない。あれではとても長くは持つまい。
手にした絆をどれ一つ損なわずに穏やかな世を迎えられたら。それが所詮夢物語であることは、家康も分かっていた。武器を捨て、痛みを知ったところで、結局自分が多くを奪って来たこと自体は変えようがない。だが、それを怨む者一人のために死んでやる訳にも行かなかった。ならば不穏の種は取り除かねばなるまい。
後ろ手に縛られ、轡を噛まされて引き立てられて来た三成は、話の通りに憔悴していた。ますます肉の削げた顔に不似合いに光る目は家康に向けられてこそいたが、その焦点の結ぶ先はどこかさえ分からない。元来薄い色の瞳は、顔にさす陰のせいか見開かれ血走るせいか、いまや紅にさえ見えた。
斬首の段取りが順調に進んで行くのを、家康は表情を変えずに眺めていた。間近に迫る自分の死よりも、目前にいる仇の死しか頭にないのだろう男を、ただじっと眺めていた。
最後に轡を外された三成は、数度咳き込んだ。それからじっと家康を見た。
「家康……」
乾き掠れた声は、それでも聞き慣れた怨嗟の色を持っていた。その歪んだ響きを懐かしいとさえ感じて、家康はうっすらと笑った。三成は元来、硬く素っ気ないがまっすぐな声音で話す男だった。それを過去に追いやったのは、他ならぬ家康だった。
刃が振り上げられたその時に、彼はかっと目を見開いた。やつれた身体のどこにあったかという苛烈さで、確かに家康を見据えた。
「未来永劫、呪ってやる!」
そうして彼の首は落ちた。
一瞬の間を置いて、家康のすぐ側に控えていた者が腰を抜かす。凶王と呼ばれた男は、首をはねられるその時まで禍々しかった。飛沫いた血と、今にも動き出しそうな肉体とを、家康は静かに眺めていた。
その凄惨な静寂の中で、それはひくりと動いた。見間違いかと家康は思った。悪夢に形を変えた夢幻かと。だがそれは刹那に飛び上がり、気づけば家康の眼前にいた。
「ッ!」
咄嗟に庇った腕に、顎が喰らいつく。歯はぎりぎりと更に食い込んで、このまま噛みちぎろうとするようだった。その目はしかと捉えた右腕ではなく、それが邪魔しなければ喰い破ることが出来たであろう喉笛を。家康の首を凝視して固まっている。
「殿!」
声がかかると同時、家康は首を殴り飛ばした。がちんと噛み締めた歯が、いくらか肉を持って行く。鞘をくわえて離さぬ顎だ。むしろこの程度で済んでよかったと言うべきだろう。
地面に当たって一度跳ねたそれは、しかし再び跳ね上がることはなかった。それでもしばらくの間、一同は固唾を飲んで首を見守った。顔を下にして血溜まりに伏せる、もはやただの死人の首を。
家臣が確かめるように槍先で突つくと、それはごろりと転がった。前髪ばかり長い銀糸は自らの血にしとどに濡れ、見開いたままの目はもはや何の光も映してはいなかった。ただそのまなこは真っ赤に血走り、今にも血の涙を流しそうな有様だった。
石田三成の首と胴体は、二度と害をなさぬよう注意深く葬られた。彼が最期に放った呪詛が果たして今も生きているものかどうか、家康は知らない。ただ、未来永劫と吠えた男が噛み取って行った傷が、ごく普通に戦場で負った傷と変わらぬ早さで治ったことを知るばかりである。この天下人は時折惜しむような目で自らの右腕を見るのだが、そこにはいまや何の痕も残ってはいない。