晴れた終わり
旧いものだから本当はもっとこまめに手入れした方がいいんですけれどね、と、何代目かの調律師に言われるが、このピアノが使われるのは調律を終えた日から数週間程度なので、彼らが危惧するほどの摩耗はないはずである。使わないからこそ傷むのだと言われてしまえばそれまでだが。
とかく、そのピアノは三六五日のうちの二〇日前後だけ、音楽を奏でることを許される。
リヒテンシュタインはその日をいつも待ちわびた。
「こんにちはリヒちゃん、びっくりした」
と、玄関のドアを開けたとたん目を丸くしたのはハンガリーだった。
「てっきりリヒちゃんが弾いてるのかと思ってたのに」
「ごきげんようハンガリーさん。以前、イタリア君にも同じことを言われました」
彼の場合は叫ぶみたいに「びっくりだー」「弾いてるとこ見てみたい」と騒いだので、気付いた兄が撃退のためすぐさま演奏を止めてしまったのだが。
それを聞いて苦笑する、その眼は酷く優しくて懐かしげな、ハンガリーにリヒテンシュタインは用向きを尋ねた。オーストリアと言う隣人のおかげでよく見知った相手ではあるが、彼女は直の隣国ではない。
「ケーキをね、作りすぎてしまったからお裾分けに来たの」
先程の続きのような苦笑で、けれど今度はどこか面白がるようにハンガリーはリヒテンシュタインにバスケットを差し出した。
「前に来た時、っていうかスイスがピアノ弾くなんて知らなかったわ」
「確かにお家でピアノを弾かれるのはこの時期だけですが…でも、兄さまも音楽院はお持ちですから」
そこまで意外ではないのでは、と呟けば、そっか、とハンガリーは頷いた。
彼女から受け取ったその中身を確認すると、確かにケーキだ。綺麗な花の装飾の施された、ザッハトルテ。
「…どなたが、作りすぎてしまったんでしょう?」
「それは言えないの。そういう約束だから」
にっこりと微笑むハンガリーにつられるようにして、リヒテンシュタインもそっと笑みを浮かべた。ハンガリーに口止めした当人は明らかだが、彼女はその約束を守るし、リヒテンシュタインもわざわざ暴くつもりはない。
「上がって行かれませんか? 丁度もうすぐお茶の時間なのです」
「ううんいいわ、あの人あんまりこの曲弾いてるの他人に聴かれたがらないでしょ?」
ハンガリーはくるりと踵を返した。その上、少し離れた所から思い出したように振り返って「バスケットは二六日を過ぎたら取りに来るね」と言ったのでリヒテンシュタインは驚いた。
なんて鋭い、この人はこんな短時間で、兄が誰に向けてこの曲を弾いているのか察したというのか。自分はそれを知るまでに随分と時間がかかったというのに。
それが顔に出ていたのか、ハンガリーは振り向いたままの姿勢で「今は未だ、ないしょにしましょうね」と言った。
はい、とリヒテンシュタインは答えた。異論はない。彼女も、言ってしまえば兄はピアノを弾くことを止めてしまうような気がしていたからだ。
やがて音楽が止んで、ダイニングにスイスがやってくる。足音が近くなる前にリヒテンシュタインはキッチンへ戻りケトルを火に掛けた。
「調子はいかがですか」
バスケットから取り出したザッハトルテを切り分けながら、尋ねた。
「全くだ」と忌々しげにこめかみを押さえてスイスは答えた。
「やはり一年も弾かぬと指が動かん」
けれど彼は毎年、二六日を過ぎればピアノに触れなくなる。
調律師がやってきて、たまには弾いてあげてくださいと言われて、そこで初めて思い立ったふりをしてスイスはピアノを弾く。
奏でられる曲がセレナーデと呼ばれるのを、リヒテンシュタインは知っているけれど、兄には言わない。言わない間は、彼はリヒテンシュタインに油断して観客でいることを許すからだ。
「……焼き菓子の匂いがしたのだが」
茶葉とカップを用意するため妹の傍らへやってきたスイスが言う。
「明日のお茶に回します。これは、おすそわけなのです、兄さま」
兄であればもしかしたら見た目だけでそれが誰によって作られたものかわかったのかもしれない、けれど彼はふむ、と唸るように頷くだけで何も言わなかった。
そうして彼の人、彼の国を祝うその日は、きっと今年も晴れやかにやってくる。スイスはその日には損じることなくセレナーデを奏でて、リヒテンシュタインはいつかその人のところで食べたお菓子を焼く。
旧いスクエアピアノの活躍は今年もそれで晴れて、終わるのだ。多分来年も。