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別れの挨拶

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周囲の者たちから「上様」と呼ばれていた若者は、数日前に急に体調を崩し床に伏せっていた。
 大阪城に入ってから激務に追われていたせいだろうと言う者、城内に潜む反対派に毒を盛られたのだと言う者、慌ただしく憶測ばかりが飛び交った。その中で、皆が困惑気味に声を潜めて話を進めていく。
 次の将軍には誰を推挙するか、ということを。
 若者も、己の命の灯火がすでに残り少ないことを自覚していた。
 まだ若い。そう言われた、そう思った。
 江戸に残してきた御台所(みだいどころ)と母上に手紙を…。そう思うが、もう筆も持てそうになかった。
 今、私が倒れれば、上手く行くと思っていた公武合体が駄目になってしまう。ますます、この国の進むべき道が混迷を極める、不透明になっていく。もう少しだけ、なぜ保たなかったと己の肉体を恨めしく思う。
 この政策の為に、公家から武家へと嫁いできた御台所。若くして将軍の座に座らされた自分を気にかけ、実の子として扱ってくれた母上。
 すぐに帰ると、すぐに江戸に戻ると、そう約束したのに。
 帰らねば、御台所が私の元へ嫁いできた意味が無くなってしまう。
 必ず、戻ると、約束したのに。
 これでは、一体、私は何の為に将軍の座に就いたというのか。
 もう、自力で起き上がれない我が身が呪わしい。
 泣くことも出来ないまま、絶望をその瞳に宿して天井を眺め遣る。 
 そして、ふと傍らに人の気配を感じ、ゆっくりと顔を横に向けた。いつからそこにいたのか、一人の男が静かに座していた。
 刺客か、そう思ったが、それにしてはその者の纏う空気が穏やかだった。
 紺の着物に黒の羽織り。身分の高いものが着るような上質の品だと病床の目から見ても分かる。髷は結っておらず、一見、童のようにも見える短めに切り揃えられた髪は、年齢はおろか男女の区別さえ付きにくい印象を与えた。帯刀はしていない。
 若者は不意に何かを思い出したように嬉しげに目を細めると、男へと声をかける。
「そなたの名を、お聞きして宜しいか?」
 問われた男は、優しく笑みを唇に乗せ、優しい手つきで若者の額に手を当てた。
 心地よい感触だった。生まれ育った紀州の山々が脳裏に浮かぶ。その匂いすらも鮮明に思い起こせた。
「まだ二十を過ぎたばかりの貴方まで、逝かせてしまうのですね、私は…」
「そなたは…」
「この私の不甲斐なさを、お許しください…」
 俯けた顔に髪が陰を落とす。男は泣いているのだろうか。
「本田様…で宜しいのか?」
「私のことを誰かにお聞きになったことがありますか」
 男は少しだけ意外そうな表情を作った。
 その反応に若者は幸福そうに笑みを澪した。
 死を目前にした幻かとも思ったが、それならそれでしっかりとこの目に焼き付けておこうと、若者はただじっと見つめる。
「伯父上から、お国様の話を何度かお聞きしたことがござりました。会える者、会えても気づかぬ者、会えないまま終わる者、それぞれだとか」
 男は、ゆっくりと頭を垂れる。
「お初にお目に掛かりますね、本田菊と申します。どうぞ気楽に、菊とお呼びください、上様」
「勿体ない…」
 若者は力の入らない腕を何とか持ち上げ、男へと伸ばそうとする。その手を男は受け止めた。
「勿体ない。私のような者に頭など下げられますな。お顔をお上げください、菊様」
 握ったままの若者の手の甲に男は額を押し付けるようにしたまま、俯けた顔を上げようとはしなかった。
「このような、年若い貴方を逝かせてしまう…。私の不甲斐なさを、どうかお許しください…」
「なぜ、謝られる? 許しを請わねばならぬは、私の方であるのに」
 男は泣いているのか。顔を上げる気配は無かった。
「何も纏められず、何一つ上手く運べないままになってしまった。申し訳無い限りで、ございます…」
「貴方は、十分にやってくれました」
「何も上手く行かなかった」
「出来うる限りのことを貴方はされた。もう十分です」
 若者は視線を天井へと移す。切ない色を浮かべた眼差しで天井をしばし見つめ、それから再び傍らの男へと戻した。
「今一度、お顔を見せてはくれませぬか。我が国のお顔を」
 その言葉でようやく男は顔を上げる。泣き笑いのような、優しさの籠もった表情で。
「私は果報者でございますな。菊様とお会い出来たなどと、伯父上に話せば、どれほどに喜んだことでありましょうか」
「……」
「このような私に、お会いになってくださるなどと、夢にも思いませなんだ」
「貴方は、もう十分に働いてくれましたよ」
「私が死ねば、次は慶喜が出て来ましょう。あの者は私よりも、国事に聡い。きっと、菊様のお役に…」
「貴方も立派に私を支えてくださいました。胸を張って先代たちにお会いになるといい」
「私でも、役に立てておりましたか…?」
 若者の目尻から一筋の涙が伝い落ちる。
「ええ、十分なほどに。だから、どうか、今はゆっくりと休まれるといい」
「有り難きお言葉を…」
「よく、頑張りましたよ。だから、どうかゆっくりと…おやすみ」
 男は握っていた若者の手を静かに布団の中へと戻してやる。それから、長く長く平伏してみせた。



 襖を開け、男は待機していた近侍から刀を受け取ると腰へと差す。それから、室内を振り返り「医者を」とだけ告げた。
 近侍の一人が中を確認し、慌ただしく廊下を駆けだしていった。


 開国は免れないことと、すでに覚悟は決めている。しかし、どう開国するかが問題だった。
 手段を巡り、国内で内乱が起きていく。それぞれの思惑が交錯していく。

 自分の次の上司となる者は、果たしてどちら側の人間になるのだろうか。

 男は城を出ると、暗雲の立ちこめる空を静かに見上げた。

作品名:別れの挨拶 作家名:氷崎冬花