【ソナーニル】傷と決意【Aリリ】
少女のためにあつらえた翠の服。無残に獣の爪痕に裂かれた布地を前開く。白い素肌が晒される。毎夜目にする滑らかなそれが、今は赤いものに濡れていた。
Aの眸がすうと細まる。
守るべき少女。Aのすべては少女のためにある。少女の望むままに、少女を何をもからも守り抜くために、Aは在る。
だというのに。
手のひらを少女の胸元へと滑らせる。白い手袋に覆われたそれが、少女の赤に染まる。また一たび、Aの眸が細められた。
ざわりと、Aの身の内に黒が翳る。判らない。からっぽ頭(エア・ヘッド)はその名を知り得ない。ただ、そう──これは己の責であるのだと。想定外であるとはいえ、役目を果たせなかった己の。それだけが事実として、認識された。
瞬きもせず、見つめる。血を、肉を。
そうして。
身を屈め──痕(きずあと)へとくちづけた。
くちびるに、舌に、鉄錆の味と少女の薄い柔らかな肉の感触が伝う。耳元に、小さく少女の吐息が触れた。
ぎくりと、赤く濡れたくちびるもそのままに、Aは身を起こす。今、胸を過ったものが何であるのか──判らない。からっぽ頭(エア・ヘッド)はその名を知り得ない。何を感じることもない、はずだ。人間が猫の仔に欲情することがないように。人間(ヒト)ではないAが人間(ヒト)に色欲の情を感じることなどない。そうであるはずだ。否、そうでなければならない。
瞬きの合間に動揺を切り捨て──動揺。心の揺らぎ。心。脳のないAにあろうはずもない──淡々と、治療を再開する。いつも通りに。無表情に。無感情に。
手袋を外し、傷口に薬を塗り込む。丁寧に。過不足なく。機械的に。
知識、記録されたそのままに、ガーゼを当て最後に包帯を巻き付けた。
牽制でしかなかったのだろう、浅く裂かれたそこは直に痕も残さず消える。少女に真新しいブラウスを着せながら──同じ翠。これが、少女のための衣装。なのだから──知らず安堵の息が漏れた。
安堵。
手が、止まる。
『白くて、綺麗な背中だ』
いつかの浴室での、自身の言葉を思い出す。記憶、記録を再生する。
白くて、綺麗な、肌。
それはただの事実、そう、事実でしかないことだ。
白くて、綺麗な。
そこにAの主観などは、ない。
安堵。
そう、美しいものが失われずに済んだ、それだけの。
それはAの主観などでは、ない。
ブラウスのボタンにかけた指を、そのまま少女の素肌へと滑らせた。腹から、胸へ。ゆっくりと上下するそこから、とくとくといのちの音が伝わる。
少女の薄く柔らかな肌へ手を触れたまま、Aは赫い眸で少女を覗き込んだ。
「きみは僕が守る」
吐息が触れ合う。少女は未だ、目覚めない。
「きみが望むままに。たとえ、きみが、 だとしても」
そうして静かに身を起こし、定位置へ。いつも通りに。無表情に。無感情に。
赫い眸は、少女の白を、見つめたまま。
作品名:【ソナーニル】傷と決意【Aリリ】 作家名:lynx