この手が届いたら
表情の無い声が、突きつけるようにそう告げて、フェンスをすり抜けて向こう側へ戻る。帝人はそんな彼の後を追うように立ち上がって、息を吐いた。
「7、2、2、1、4、#、5って数字の意味、僕ですよね」
問いかけに、一瞬ぴくりと体を揺らし、臨也目を逸らすように視線を落とした。
「・・・去年ずっと、チャットでお世話になってた人が、12・15・22・5でLOVEだって、僕に言ったことがあって」
「・・・何が、言いたいの」
「アルファベットの順番です。・・・同じ原理だなって気づいたとき、ようやく分かりました。あなたの空気というか・・・初めて会った気がしない気分の正体」
狭い足場の上で立つ帝人と、フェンスの向こう側の臨也がおずおずと視線を合わせる。
「50音のあかさたなの順番と、母音の組み合わせ。#が濁音を意味するなら・・・7、2、2、1、4、#、5で、みかどです」
「・・・そうだね。俺もそれは気づいてた」
「さらに言うなら、その暗号を聞いたのはあのときが二度目でした」
文字列を見た印象と、音で聞く数字の並びが上手く重ならず、同じことだとは思わなかったのだ。けれどもそれをメモ帳に写してみて、チャットの過去ログと照らし合わせたときの衝撃といったらない。
「・・・あなたが、甘楽さんだったんですね」
それについて、臨也が覚えているかどうかは、帝人には判断がつかない。丁度一年ほど前だった、あのチャットと出会ったのも。
そうして甘楽があの言葉を残して消えたのは、2月の末。新羅の話が確かならば、臨也が病院に入院したのは3月初旬。
私、やることができちゃったんですぅ、といつも通りのノリで甘楽は言った。けれども☆やら顔文字なんかを使っている余裕が無かったことに位は、気づいていた。
すーっごく大事なことなんです。もう二度とここには戻ってこられないかも?でもでも、甘楽ちゃんの命をかけてやり遂げるつもりですので、太郎さんには応援して欲しいな
7、2、2、1、4、#、5を守るんです。えへへ、詳しくは秘密ですよぅ
独りよがりですよぅ。結局、誰かのために何か擦るなんていうのは、エゴでしかありませんから!私は私のために、甘楽ちゃんが一番したいようにするのっ!
だから、さよなら、太郎さん。
過去ログを何度あさってみても、あの一連の文字列だけ異質としか言いようが無かった。普段の甘楽さんを装って全然別の人が書いているみたいな違和感、それに内容の不可解さも合わさって、痛烈に覚えている。その空気と臨也が、重なったのだ。
「臨也さん、僕は・・・」
言いかけて帝人は、急にぐらりと揺れた視界に息を呑んだ。
「帝人君!?」
臨也が驚いたように手を伸ばす。
その手がやっぱり帝人をすり抜けて、驚愕に見開かれた臨也の瞳が間近に見えて、眩暈と一瞬遠くなった意識の片隅で、帝人は風を感じた。
落ちてゆくような、浮遊感。視界に翻るのは、臨也の黒いコートのすそ。暗がりの中で、泣きそうな顔をした臨也が何かを叫ぶ。
そうして、意識は、唐突に途切れた。
臨也さん、と。
呼ぶ声が好きだと思った。
「帝人君!?」
突然ぐらりと揺れた体に、臨也はとっさに手を伸ばした。馬鹿、だからフェンスを越えるなと言ったんだ、とか、そうだった倒れたばかりで何をしてるんだよ、とか、言いたいことは山ほどあっても言葉にならない。必死になった伸ばした手が、空を切りすり抜けて何もつかめない事だって、知っていた、知っていたのに。
ぼんやりとした帝人の目が閉じられ、嘘みたいにゆっくりその体が外側に倒れこむそのシーンが、まるで映画か何かのように美しく。
遠いところへ行ってしまう、そう思ったらもう、耐え切れなかった。
帝人のことは何一つ、思い出せないままでいる。
今だってどうしてこんなに必死に、彼を助けようとするのか分からない。でもそんなのはどうでもいい、些事だ、と臨也は思う。きっとその記憶はここに無いものなんだ、だから思い出せないのは道理だ。けれども折原臨也なら、推論だけでその空白を埋める事だってできる。実際今、空白の大部分は推理で埋めたと思う。何がきっかけで、どんな風にそう思ったのか知らないが、臨也は確かに、帝人に特別な好意を寄せていたのだろう。
今この胸が、焦げ付くように。
命かけて守ってやろうと、思うくらいに。
それでもいつかこの思いを分かってくれたらと、遠まわしに暗号なんか残してみたりして。印象に残るように、わざわざ別れを告げたりして。それだけでは足りなくて、こんなになってまで。
「っ届け!」
フェンスをすり抜けて、夜の闇に沈んでいくようなその小さな体躯に向かってダイブする。
「届けよ!」
何のための手だ、何のために今までここに在った存在だ。何のために何のために何のために!
彼を守ると、そのためなら何でも犠牲にしてやろうと、誓ったのは誰だ。何度でも触れられないことを確かめて、何度でも絶望して、それでもあきらめなかったのは、あきらめたくなかったのは誰だよ!
「届けって、言ってんだろ!」
今、触れられないなら。
臨也が臨也でいる意味なんか、無い。
もがくように伸ばしたその手のひらが、指先が、暗闇に沈む少年の華奢な腕に・・・刹那、触れた。