おやすみなさい
兄がかすれた声で電話をかけてきたのが、数分前。
これは酔ってるなと思ったら案の定で、幽が玄関の扉を開けるなり、ぺたりと床に座り込んで、壁にもたれかかってしまう。骨が溶けたようにぐにゃぐにゃで、瞼は半分落ちている。
ここまで、兄が酔うのは珍しい。酔って見境がなくなるのを、とてもこわがってる。もっとも酔わなくてもキレると見境を無くすことが度々なのだが。
「かすかぁ…」
嗄れて、でも妙に甘ったるい声だった。そんな声を聞くのは久々だった。こういうときに、どういう表情をすべきなのか幽は迷い、結局、口元ひとつ動かせない。ただ溜息がもれた。冷蔵庫から持ってきたミネラルウォーターを兄の頬に押しつけると、冷たさにびくりと肩をふるわせて、薄目をあけた。
「兄貴、水」
「ああ……」
ペットボトルをくわえて傾けて、途端に、口からこぼす。水の雫がぽたぽたこぼれて、シャツに染みをつくる。冷たいだろうに、兄はちっとも気にせずに、幽にしがみついて、ぐりぐりと胸に頭をおしつけてくる。頭のてっぺんのつむじがよく見えた。
「か、す、かぁ」
「なに」
兄はそれには答えずに、ただむにゃむにゃと「かすかぁ…」と繰り返す。かと思うと、どさっと倒れてきて、幽は押し潰された。兄の方が上背だってずっとある。細身のわりに、筋肉質のせいなのか、重たい。重たくて、酔ってるせいかなんだか熱い。煙草の臭いが、つよく漂った。ぎゅうぎゅうとしがみつかれて、痛いくらい。それでも力まかせではなくて、どこか遠慮してる。そんな兄がひどくいとおしくおもえて、胸がきゅうとした。なのに、自分の表情は代わらない。ただ、兄の背中にふれた手に力がこもる。
「か、す、か…ぁ」
「うん」
「――おまえは、おれのことが……」
そのあとのことばはくぐもって聞こえない。それでも幽は頷く。兄がどんな答えを求めてるかわかる。
「うん」
その答えに兄はほんの少し口元を歪めて、すうっと寝付く。ぽんぽんと背中をあやしながら、兄の寝顔を眺めるうちに、自分の口元まで緩んでいることに、幽は気付かなかった。