かみさまの通り道
昇る日を映す瀬戸内を眼前に、凛とした早朝の空気を深く吸い込む。
久々に踏み入れる厳島の地に、元就は心からの安堵を覚えた。
朝日差し込む回廊を、仏閣に向けてひたすら進む。
歩き慣れたこの路も、見慣れたはずのこの景色も、自分がいた頃と全く同じはずなのに…。
それが、どこか異質なものに感じてしまうのは、島に漂う空気が一変してしまっていたからなのだろう。
「そっから先は有料だぜ?」
背後に立つ気配からの言葉に、元就は小さく舌打ちをする。
よりにもよって、一番会いたくもない相手に、こういうときばかり間が悪く出会ってしまうものだ…。
「人の庭、勝手に荒らされちゃあ困るんだがなぁ…」
軽い口調ではあるが、どこか有無を言わさぬ声音で告げられる言葉に、元就は神経質そうな眉を寄せた。
「ここは人のものではないと、何度言えばわかる…」
「長曾我部」と呼ばれた男は、元就の言葉に適当な相槌を打って近づいてくる。
そうして、初めて間近で見た元就の姿に、元親はほんの少し面食らったような表情を見せた。
「武器はどうしたよ?」
「神を詣でるために、輪刀は必要ない」
本人の言葉通り、今の元就は、普段からは想像できぬほどの軽装である。
防具もなく、武器もなく…なんとも無防備な姿だ。
「おいおい…敵のいる地に単身踏み込むにしちゃ、この格好は…」
「我は神を詣でに来たのだ」
苦笑いで絡んでくる元親に対し、元就は「戦をするためではない」とただそれだけを言い返す。
そんなふうにピシャリと言い返された元親は、まるで自分だけが悪者なようなこの空気に、むっとした表情を見せた。
もとより厳島は、毛利の統べる領地であった。
それに対し、財宝目当てに攻め込み、その地までも荒し、奪っていったのが長曾我部なのだ。
信心深い元就は、この地を「神の住まう地」と捉えている。
だからなのか…この神域で、これ以上血を流す戦をすることに躊躇いを持っていたのだ。
しかし、その地が敵のものになったとはいえ、元就には神への信心を捨て置くことが出来なかった。
だから、元親から武力で島を奪取をせぬ変わり、時折ひっそりと誰も起きてこぬような夜深くや朝早くに、こうして神殿を参拝しに来ていたのだ。
「そなたと、刃を交える意志はない」
だから通せ…と、無防備な今の姿で言われてしまったら…。
流石の元親も返す言葉をなくし、不本意ながらも従わざるを得ない流れになる。
だがこの年になっても、まだまだ幼い気質の残る元親にとって、素直に元就の言い分を認めてしまうのは面白くないことだ。
「…じゃあ、なにかくれよ?」
通行料…と、臆面もなく告げてくる元親に、元就は呆れを隠すこともなく深い溜息をつく。
まだ幼いこの男には、なにを言っても無駄なのだろう。
つくづく相手の幼稚さを実感した元就は、意図的に落としていた視線を、まっすぐ元親に向ける。
なんの感情すらも読めぬような瞳で、相手を見据えたまま、元就は一歩、また一歩…と、元親へ歩みよっていく。
その元就の行動に動揺した元親は、少しひるんだ様子で、間合いを詰められぬようにじりじりと後退している。
武器を手にした自分の方がずっと有利にもかかわらず…元就の雰囲気に気圧されて、なにも出来ぬ元親は、さながら説教を受ける寸前の子供のような有り様だ。
そうして、とうとう追い詰められた元親は、その背中に冷たい柱の温度を感じて、背筋を凍らせる。
元就の怒気や冷遇をはらんだ眼差しには慣れている彼でも、うまく感情の読めぬこの眼差しには、どうすることもできない。
「も…毛利!わかった、もうなんもいらねぇから…」
情けなくも…己の意志を曲げるしか、助かる術がないと判断した元親は、元就をなだめるよう猫なで声で告げる。
だが、それでも近付いてくる元就が、とうとう元親の目の前まで辿り着いて…。
──…あぁ、殺される。
そう思って、咄嗟に目を瞑った元親の耳に。
「そなたに、くれてやる…」
…と、呟く声が聞こえたかと思うと。
唇に、柔らかくあたたかい感触が押し付けられた。
一度目は短く。
少し唇が離れて。
二度目はほんの少し長く。
元就の口布が二人の間で擦れ、お互いの唇にくすぐったさを残す。
「通行料だ」
用件のみを端的に告げ、突然の口付けにいまだ驚きで動けぬ元親の横を、元就はすり抜けていく。
遠ざかる硬質な足音に、ようやく我に返った元親が。
「神さまのとこに行くんだろ、鬼と接吻なんていいのかよ?」
…と、問うと。
「一つ目の鬼は、神にもなりうると聞く…そなたとなら、問題なかろう?」
そう、元就は飄々と告げてくる。
元就は、元親がもうこれ以上、自分に絡んでくる気力もないと悟ったのか…再び神殿を目指し、足を進めた。
そしてその場に残された元親は、唖然とした表情で元就を見送ることしか出来なかった。