道しるべ
そう言って笑う妻に、夫は少しだけ眉を寄せた。
「しかし……マイペースというには、少々遅すぎる。
もしかしたらお腹の子は――」
「マイペースなのっ!」
危惧するクラトスの言葉を、アンナは途中で遮った。
クラトスの言いたい事はわかる。
普通ならばすでに産み月を迎えているはずの子供が、予定日を三ヵ月もすぎているのに産まれてくる気配を見せない。それどころか赤ん坊は、アンナの腹を蹴った事もない。エクスフィアの影響を受けて成長が遅れいているだけならばまだ良いが、休む間もない逃亡生活。無理がたたって、お腹の子はすでに死んでいるのではないだろうか。若い夫婦にとって初めての子供。不安を感じないはずはない。
「クラトスは心配しすぎよ」
「しかしだな……」
「この子はちゃんと生きてるわ。わかるもの」
自分の小さいながらも膨らんだお腹を撫でながら、アンナはうっとりと微笑む。
「他の子よりものんびりでもいいの。五体満足で、元気に産まれてきてくれれば……他に望む事はないわ」
男の身であるクラトスにはわかるはずもないが、アンナにとっては自分の体のことだ。自分の身に宿る命の鼓動を、微かに感じ取る事ができる。
「今からそんなに心配性だったら、この子が女の子だった時……将来大変ね」
「ね?」とクラトスに同意を求め、アンナはその様を想像したのだろう。楽しそうに微笑んだ。同意を求められたクラトスはといえば……自分でも想像できるのだろう。ばつが悪そうに苦笑を浮かべた。そんなクラトスの仕草をみて、アンナはお腹を撫でながら再び笑う――と。
「あ、あれ?」
不意に感じた感触に、アンナはお腹を撫でる手をとめる。
それからゆっくりと瞬いて、視線をお腹に落した。
「どうした? 何か異変でも……」
「大変。大異変よ、クラトス!」
妻の異変にクラトスは眉を寄せる。
すぐに医者を呼ぼうとクラトスが立ちあがるのを、アンナが夫の頬に手を伸ばす事で制する。
アンナの白い手に頬を包み込まれて、クラトスは寄せた眉を吊り上げた。
「アンナ、異変があったならすぐに医者を……」
「大丈夫。そういった異変じゃないから」
アンナはゆっくりとクラトスの手をとり、自分のお腹にあてた。そのまま何かを待つようにじっとしている。
奇妙な沈黙。
「……アンナ?」
「しっ」
行動の意味を問おうと口を開けば、アンナは唇に指をあててそれを制止する。
時間としては数分そうして待っていただろうか。クラトスはぽこりと小さく自分の手が押し返されるのを感じた。
「……ね? 心配のしすぎだったでしょう?」
胎児に蹴られるという、おそらくは初めての体験に、クラトスは小さく微笑みを浮かべる。
「……そう、だな」
そっと小さなお腹に頬をよせ、クラトスは目を閉じた。その頬を愛おしそうに撫でながら、アンナは子守唄を口ずさむ。
普通より妊娠期間が長くても良い。元々両親がちょっと普通ではないのだ、特殊でない方がおかしい。ただ元気に産まれてくれさえすれば、かまわない。
だから『早く元気な姿を見せて』と、願いをこめてアンナは歌った。